常識という宗教
カルト教団のドキュメンタリー番組を観た。脱会者が涙ながらにカルト教団の異常性を語り、再現映像と共に検証しながら「どう思います?」と視聴者に問いかけるような構成の番組だ。
どこから見て異常か
下腹部に焼印を入れられ教祖の性奴隷にされるセックス教団であったり、信者の子どもを馬車馬のようにタダ働きさせ搾り取る強制労働教団であったり。
「普通の」生活をしている我々にとっては異常な世界観でしかない。ただし、何をもって普通とするかは難しい。
社会において、法律違反があれば法の名の下に罰することができるだろう。しかし、信者はその世界を信じ込んでいるので簡単には踏み込めない。闇に包まれている。脱会者の証言は、ただの逆恨みにも見えてしまうかもしれない。何らかの理由で脱会者が急増でもしない限り、犯罪を立証するのは難しそうだ。
さらに厄介なのは、信者は教祖が逮捕されたぐらいでは怯まないことだ。むしろ、教祖が逮捕されたことを陰謀論的に解釈して信仰心を高める。
理由はさておき、イエスも十字架に磔にされているわけで、カルト教団の教祖が逮捕されることをそれと重ねる信者もいる。人間の認識の世界はめちゃくちゃ厄介である。
法律教と資本主義教と民主主義教
法律で結界が引かれている私たちもまた「法律」という名のカルト、カネという物差しですべてを測る「資本主義」という名のカルト、みんなで決めようという「民主主義」という名のカルトを信奉して生きているとも言える。忠誠心にバラつきはあれど、私たちの多くが広くその世界観を共有している(イデオロギーと宗教は本来別ものであるが、現実的な境目はロジックと感情にあると私は考える。説明が長くなるので、これはまた別の機会に話す)。
多くの人にとって、自分の世界観から逸脱したものは恐ろしい。
たとえば、「中国怖い」と思うことがあるとすれば、多くの場合、中国共産党の世界観が理解できないからである。理解できないだけなら神秘性もあるが、彼らによって自分たちの世界が侵されるのではないかという危機感と相まって怖いのである。
自分が信じている世界観に反するものは簡単に理解できないし、その理解できないものは自分の世界観を侵す存在になるかもしれないということで恐怖に感じる。
カルト教団への恐怖はこのあたりにあるのだろう。
議論にならない
宗教というのは1つの答えであり、信者は教義に対しクリティカルシンキングしてはならない。教義を信じるか、信じないかの2択である。議論を持ちかけてはならない。
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