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嫌いは相手、苦手は自分

世の中を眺めていると、やたらと憎悪が渦巻いている。嫌いな人に対してエネルギー(もっと言うなら限りある生命)を費やしていることに気づいているのだろうか。人生がつまらないことに埋め尽くされてしまわないことを願う。

何度かここにも書いてきた気がするが、私には嫌いな人がいない。別に、聖人君子ではない。

「嫌い」はないのだが、「苦手」な人ならいくらでもいる。

嫌いと苦手

嫌いと苦手は本来分けて考えるべきである。

嫌い」というのは相手側に問題をなすりつける表現である。「ピーマンが嫌い」と言うとき、「私のせいで、ピーマンが嫌い」というよりは「ピーマンのせいで、ピーマンが嫌い」というニュアンスが強く含まれている。情動が発火し理性を失い、勝手に敵認定してしまっている。

一方、「苦手」は自分の問題としてとらえた表現である。「ゴーヤが苦手」と言うとき、「ゴーヤのせいで、ゴーヤが苦手」というよりは「私のせいで、ゴーヤが苦手」というニュアンスが強く含まれている。

ただの私のとらえ方の問題かと言われると、決してそんなことはない。

国語辞典を引いてもらえば分かるが、「嫌い」は情動的反応であり、「苦手」は自分にとって扱いにくかったり不得手であるという解釈の話である。

嫌い

もう少し丁寧に説明しよう。

「嫌い」というのは感情であるから、そもそもそれ自体に良いも悪いもない。感情はどこまでいっても反応でしかなく、反応の原因である刺激は自分の外にある。 

もし、嫌いを説明しようとしたら、相手の特徴をあげつらうほかない

「やさしくないから。言葉に圧迫感があるから。何言ってるか分からないから。ナルシスト。人をバカにしたような態度。顔。」

これだけ羅列しておきながら、自分自身のことは説明できない。「(相手がこれこれだから)嫌いです」で完結してしまう。

ちょっと冷静に考えるなら、「あなたに落ち度はないのか?完璧なのか?神なのか?」という疑問が浮かぶ。

「その通り、私はパーフェクトである」という人間はまずいないだろう。たとえ、自己評価がそうだとしても誰も賛同しない。

苦手

「苦手」というのは解釈である。突き詰めていくと、相手の問題では済まされない。嫌いとは違い、相手の特徴をあげつらったところで説明が完了しない。

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