宗教的、あまりに宗教的な
ある物語のある役を与えられ、その役を演じきることで心をなんとか落ち着けている人が実に多い。人間は、宗教的な、あまりに宗教的な動物であるというふうに私は思うわけです。
宗教を大っぴらに語る人はもちろんのこと、私の知る限りの日本の知人で「(積極的な態度で)宗教に入信しています」という人を見かけることはなかなかありません。
では、宗教は廃れてしまったのかというと決してそんなことはありません。神不在の現在、お金、科学、自由、生命、健康、家族など、別の(宗教という形態をとっていない)宗教に鞍替えしたに過ぎません。何かを宗教的なレベルで信仰している人が本当に多いのです。
私は、何を「宗教的」と呼んでいるのか。「1つの物語、1つのモノサシに著しく偏った観点」のことをそのように呼んでいます。
お金教
たとえば、なんでもかんでも「お金」、最後の最後は「お金」。そういう人のことを、お金教の信者と私はみなしています。まるで「神」のように、絶対的な根拠としてお金を引き合いに出してくる。これはもう宗教以外の何ものでもありません。
お金に価値が存在するのはお金を信じている人同士の間においてだけです。ある人が日本円を心の底から信じていないとしましょう。その人に、もし私が1万円をあげたとしても、手垢で汚れたバイ菌まみれの紙切れを相手に渡すという狂気じみた行為になってしまいます。それを信じ合っていないと価値を共有できないのです。
とはいえ、現代社会でお金が機能しているのは事実です。それは価値を信じ合えているからです。確かに、便利ですね。私自身もお金という「道具」に助けられています。ただ、どのように信じているかはまったく別の話です。モノやサービスと交換できる道具として信じているのか、全能の神として「お金」を信じているのか。後者が、お金という観点に著しく偏っているのは言うまでもないでしょう。
カエル教
たとえば、ある人がカエル教を信仰し、神の化身であるアマガエルを崇めたてまつっているとしたら、あなたはどう思いますか?外野の私たちが、どのような感想を抱いてもかまわないでしょう。ただ、信教の自由がある以上、過剰に口出ししたり、差別をしてはいけないと私は思います。
ところが、カエル教の信者が「アマガエル様をお守りせねば!」と道路の真ん中に居座り、アマガエル様が道路を渡り切るまで車の往来を止めるという行為に及んだとしたなら、果たして許せるでしょうか。許されませんね。道路交通法に違反するでしょうから、普通に犯罪です。法律で裁かれると思います。
では、あなたとの日常会話の中で「アマガエル様が道路を渡り切るまで車の往来を止める」という考えをまるでこの世の真理のごとく語るのはどうでしょうか。これは別に罪にはなりませんね。おそらく「コミュニケーションがまともに成立しない」という結果がそこにはあるだけです。
本質的には、お金教の信者もカエル教の信者も同じです。それ以外のモノサシが受け入れられないので、別のモノサシを持つ人とコミュニケーションが成立しません。教義の異なる別々の宗教ではありますが、他のモノサシ(観点)が入り込む余地のない状態は、何かの宗教を盲信していると言えるのです。
あまりに宗教的な
科学教、自由教、生命教、健康教、家族教なども同様です。何かのモノサシに著しく偏って、他の観点が入り込む余地がなくなったら、もはやカルト宗教です。
科学を信じることも、家族を大事にすることも、生命を守ることも、それ自体は善でも悪でもありません。
「いや、家族を大事にするって善いに決まってるでしょ!」と思うかもしれません。しかし、田中家を何より大切にしたいからと「田中家以外の人間を九州から追い出す」というのは善でしょうか。たとえ、完全に合法的な手段を取ったとしても、いかがなものかと私は思います。
つまり、何ごとも程度問題、バランス問題であるということです。
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