辞めるのに説明はいらない
何かを辞めるのに、説明はいらないと私は思っています。
辞めようと決めるとき、何かしらの原因があり、その課題を解決できそうにないから辞めるわけですね。
何かを辞めようと決めるとき、大きく2つの理由が考えられます。
1つは、他の何かに挑戦したいとき、現環境のままでは挑戦できない理由があり、現環境を離れる(辞める)という選択をする場合。
2つ目は、現環境に問題を感じていて、現環境を離れる(辞める)以外の方法では解決できそうにない場合。
基本的には、この2つのどちらかでしょう。そこに、リアルな個人のストーリーがぶら下がっているという構造ですね。
辞める話は、最終的に本人の問題発見力、課題解決力、調整力にたどり着くと思っています。
辞めたいと思った、つらいと思った、その問題を発見すること、その問題の解決策を考えること。これがきちんとできて、はじめて調整ができるのです。
たとえば、今の仕事が肉体的にしんどいとします。ある日、「辞めます」と言う。よくある話かもしれません。
でも、「辞めます」と言う前に、肉体的な負荷がもう少し軽くなるセクションへの異動や、出勤日数や出勤時間の調整を相談することぐらいはせめてできたはずです。
もちろん、相談したところで、解決されるかは分かりません。解決を他者に委ねているのですから確率は下がるでしょう。
本人に問題発見力、課題解決力、何なら提案力がないと調整なんてまともにできない。じっと待つか、辞めるかの二択しかありません。
「辞めます」というのは結論であり、相談でも提案でもないわけですね。
結論なのだから、「分かった」ということになります。
何かを辞めるときの精神構造は、「そこまでして続けなくていいかな」なんですね。
つまり、「問題を発見し、解決方法を考え、調整してまで続けなくていいかな」ということ。
「そこまでして」に個人差が有りすぎて、他者は何ともしがたいです。気持ちと能力が混ざり合いすぎて。
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