みんな本当はうまくいく方法ではなく、楽しくやる方法を知りたいんだろう
「求められていないアドバイスはしない」というのが私のポリシーです(精神論で励ますことはあっても、方法論を提示したりはしないように気をつけています)。
責任が持てない
もしアドバイスから何らかの成果が得られたとしても、その一方で別の何かを失っている。そんなことに責任は持てそうにないからです。
一口に「成果」と言っても、さまざまです。分かりやすいのは、「お金が儲かる」とか「知名度が上がる」「箔が付く」といった金銭に還元される成果ではないでしょうか。むしろ、金銭に還元される成果以外を成果と見なさないことのほうが一般的であるような気もします。
ところが、実際は「どうしたらいいかアドバイスがほしい」と直接言われるときでさえ、金銭に還元されうるとか、効率的であるということは最優先事項でなかったりします。もちろん、ビジネスらしい成果があるに越したことはありませんが、もっと楽しいと思えるようにとか、やりがいがあると思える方法を求めていたりするものです。
よほど、ビジネス方向に振り切っていない限り、本当はうまくいく方法ではなく、楽しくやる方法を知りたいんだろうと思います。
うまくやる方法にはセオリーがあるけれど、楽しくやる方法にセオリーはありません。
他者の主観に対し、責任は持てそうにない。だから、求められてもいないアドバイスを私はしません。
二重苦
また、私自身が求めてもいないアドバイスをされるのが鬱陶しいというのもあります。
「もっと、こうしたほうがいいんじゃないか」
(求めていないアドバイスをされるときに限って)セオリーを助言されたりします。そんなことはとっくに考え終えているし、何なら別に困ってさえいない。
「そんなことを実践したら、まるで楽しくなくなるではないか」
楽しくやりたいだけとか、楽しさファーストいうのは、実際のところすごく多いのです。楽しくなくなるぐらいならやりたくない、という具合に。
とはいえ、アドバイスをしている当の本人は善意だったりするから、無碍にもできない。つまり、アドバイスが鬱陶しい上に、雑に扱えない面倒さまで兼ね備えている。二重で鬱陶しいわけです。
意見はありがたい
「アドバイスはいらない」と言うと勘違いされそうですが、意見は必要です。
20代の頃、バンド活動をしていたとき、(こちらから誰かに相談した場合のアドバイスは別ですが)求めてもいないアドバイスをよくされました。先述の通り、セオリー一辺倒で、すでに考えた上で不採用にしたアクションばかり。僭越ながら、鬱陶しかったのを覚えています。
一方、意見や感想は「そういう見方もあるのか」と参考になります。大変ありがたかった。「この曲が好きです」とか「最近の曲はスロウなのが多いから退屈」とか、「演奏が下手」とか。どれも貴重な意見です。
しかし、「この曲はウケると思うから、もっとこの路線でいったほうがいい」とか「キーボードをメンバーに入れたほうがいい」とか。そういう方法論まで突っ込まれると、やはり鬱陶しい。「あなた、誰?」という気持ちが湧いてきてしまうのです。
私には、そもそも野心というのが乏しい。だからこそなのかもしれませんが、活動に求めるものは楽しさファーストであり、ストレスフリーです。活動の目的や方針など理解せぬまま、直接的・間接的に金銭へと還元される一般論をドヤ顔でアドバイスされるのは、やはり鬱陶しいというものです。
繰り返しますが、求めていないアドバイスはいらないけれど、意見は必要です。視点は多いに越したことがないと思っています。
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