受け止める、受け入れる
起こった事実をただ受け止めて、これから生きるはずの人生をどうすればよく生きられるかを考えるほかない。事実は事実なので事実に抗っても仕方ない。
先日、このようにTwitterに投稿したところ、以下のコメントをいただいた。
深ーく同意。
受け入れる。
うーむ、受け止めるとは、ちょっとちがうのかな?受け入れる。。。
「受け止める」と「受け入れる」、それぞれ似たような言葉ではあるが、なかなかニュアンスが異なる。今回はその違いを私なりに説明したいと思う。
受け止める、受け入れる
まずは辞書を引いてみよう。
【受(け)止める】
①飛んできた物や落ちてきた物を手や腕で支えて進行を止める。
②攻撃を食い止める。防ぐ。
③外からの働きかけを受けてそれに対応する。取り組む。
(出典:大辞林)
【受(け)入れる・受(け)▽容れる】
①人の言うことや要求などを聞き入れる。
②引き取って、世話をする。
③受け取って収める。また、他からもたらされたものを取り入れる。
(出典:大辞林)
「受け止める」は、外からの働きかけを受けてそれに対応すること。「受け入れる」は、人の言うことや要求などを聞き入れることらしい。
起こった事実をただ受け止めて、これから生きるはずの人生をどうすればよく生きられるかを考えるほかない。事実は事実なので事実に抗っても仕方ない。
冒頭のこのつぶやきに戻るならば、「受け止める」というのは事実を受けてそれに対応することを意味する。「受け止めて」の部分を「受け入れて」に変換するならば、事実を了承することを意味し、場合によっては自分の中に取り込むことまで含むかもしれない。
擬態と適応に通ずる何か
「受け止める」と「受け入れる」は、社会に対する「擬態と適応」にも通ずる何かがある。
「適応」は行動という観察可能なものだけでなく、考え方や感じ方という観察不可能な認知的側面も含まれる。言葉の適用範囲が広いのだ。一方、「擬態」は適応と違って、行動という観察可能なレベルの話であり、考え方や感じ方といった認知面までは含めない。
自己の内面にまで取り込まれているかどうかの違い、対象に対しての溶け合い方の違いである。
「受け止める」は、あくまで事実を理解すること、自分ゴトとして解釈することに留めている。事実に対処するだけで、自分の内側に受け入れてはいない。一方、「受け入れる」は、事実を了承し事実に適応しているようだ。
言語化した時点で
どうやら世の中には、受け止めるのが得意な人と、受け入れるのが得意な人がいるらしい。
「受け入れる」というのは、海のようなスケールの大きさを感じる。理屈を超えている。意識的に受け入れるのは、私にはなかなか難しい。
私自身、無意識レベルでは受け入れていることは膨大にあるだろう(そうでないと生きていけない)。ところが、事実を言語化した時点で、受け入れるから受け止めるへ強制的にモードがチェンジしてしまう。
受け入れるのが得意な人は感覚派、受け止めるのが得意な人は論理派なのかなとも思ったりもするのだが、どうだろうか。
私は事実を私の目の前で受け止めて、理解し解釈し、私なりに対応することで精一杯だ。その意味で、起こった事実をただ受け止めて、これから生きるはずの人生をどうすればよく生きられるかを考えるほかない。事実は事実なので事実に抗っても仕方ない。そのように考えている。
こうして見ていくと、あらためて受け止めるのと受け入れるのは全然違うように見えてくる。
とはいえ、起こった事実に抗うことなく、前向きな姿勢で臨むあたりは似ている。
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