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読み書き不在の話す聞く

現代、スマホの画面を覗き込んだり、SNSやチャットをしたり、テキストを使ったコミュニケーションが盛んですよね。

もしかすると、誰かと話す以上に書いているかも知れません。

しかし、チャットもSNSもスピードが速い

チャットやSNSの読み書きって、作文的な読み書きよりずっとスピードが速いんです。話すように書くし、聞くように読む

本来、読む行為は文の論理構造に目を凝らします。文字の羅列から意味を立ち上げるために、言葉の意味と言葉のつながりを理解しなければなりません。

しかし、チャットは大して論理構造のない短文だったりしますよね。


もうすぐ着くよ

下で待ってて

了解


こんなやりとりをテキストでやる。まるで会話のような瞬発力が求められます。

一見、それは読んだり書いたりしているんだけど、読んだり書いたりしてない状態。実は、話している状態

そう考えると、読み書き不在で話す聞くばかりの日常を生きている人がたくさんいるんじゃないかと思うわけです。

では、読み書き不在の一体何が問題なのか?

論理の価値が下がり、感情の価値が上がりがちなことです。

つまり、言葉を咀嚼する(論理的に考える)ことがおざなりになる。つい、舌触りやのどごし、胃袋の膨らみ(感情)だけで判断してしまう。

食べ物を噛まずに飲み込むのと似ていますその言葉の栄養を吸収できないまま、食べた気になってしまっている。判断軸が感情に偏る。

「言葉を咀嚼する」

それは感情だけでなく、論理構造にまで目を向けることなのです。

そういえば、これだけいろんな発言が炎上している世の中で、なぜ書籍は炎上しないのかと疑問に思ったことがあります。

まず、興味がないから長文をわざわざ読まない。次に、そもそも長文を読む力がない。最後に、文章を読んでいると論理構造を理解するために自然と論理的な思考が働き、論理的思考が育っていく。さらには、著者の論理をくつがえせるほどの論理的な批判ができない。

つまり、読むハードルで仕分けされ、さらに読む人の論理的思考が比較的働きやすい上、批判にも相当な論理構成力が必要なため、なかなか炎上しないんじゃないか。そんな風に考えています。

芸能人の発言やインフルエンサーのツイートが炎上したりというのは、文脈がない(見えない)場合がほとんどです。文脈を排除してしまえば、読みたいように読むことができます。それを差別的な発言として受け取ることも簡単にできます。

しかし、実際に原文を呼んだり、コメントの前後を全部考慮すると(文脈や論理まで理解できると)いちいち目くじら立てるほどのことでもなかったりするんですね。

目の前に現れた140字に感情で反応している。読みたいように読んでいる。つまり、怒りたい人が、怒れる理由を見つけて、勝手に怒っている。私にはそんな風に見えてしまいます。

感情と論理のバランスが取れていないと一方的な押し付け合戦になってしまい、コミュニケーションが成立しません。

私は、よく「一緒に意味をつくる気がある人としかコミュニケーションしない」とか「一緒に意味をつくることを楽しめる人としか議論しない」と言っています。そもそも、「一緒に意味をつくることがコミュニケーション」だとさえ思っています。

それができる人はどんな人なのかといえば、まず、感情と論理のバランスのある程度取れていることが最低条件になります。

そして、感情と論理のバランスを取るためには「読む書く聞く話すのバランス」が重要な要素の1つなのかもしれないなと最近は思っているんです。。

読み書き不在の話す聞くは、論理不在の感情論になりがちではないでしょうか。


追伸

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