固定化された距離感で凝り固まる
学生時代に戻る夢を見た。教室に机と椅子が敷き詰められてある、あの光景だ。一晩(夢の中では3日間)、学校生活を送ってみた感想は以下の通り。
「固定化された距離感、しんどい」
来る日も来る日も、前にはあいつ、隣にはこいつ、後ろにはそいつである。何も彼ら彼女らのことが嫌いだと言いたいわけではない。同じ顔ぶれに飽きてくるのだ。
奇跡的に好きな人の隣であれば、むしろ毎日多くの時間を近くで過ごしたいと思えるかもしれない。恋愛感情をともなうため、これは例外の話だろう。好きな人が前と隣と後ろに配置されることは考えにくい。
四方が「まあ普通」みたいに関係の人に囲まれたり、嫌な奴の近くになったりする確率のほうが高そうだ。
夢の中で、私はそこそこ仲の良い友人たちと席が近かった。今書きながら思い返してみると、それは仲がよかったのではなく、席が近いから仲良くしとかなきゃいろいろめんどくさいよなという合理的な判断だったと思う。決して、情動的に盛り上がって(「みんな最高!」という気持ちで)一緒にいるわけではなかったのだろう。
私は、常々「人間関係は距離感が大切だ」と言っている。良い人、悪い人、合う人、合わない人がいると思っているかもしれないが、良く見える距離、悪く見える距離、合う距離、合わない距離があるだけだ。
たとえ、あの人の顔が、声が、しゃべり方がムカつくとして、ブラジルにいてくれたらどうでもよいのではないだろうか。まさしく距離である。五感を対象から遠ざける。シンプルな方法だ。
(厳密にいえば、距離だけでない。視点や、フィルター、解釈の自由度など複雑な要素が関係してくるわけだが、距離が1番インパクトも大きく分かりやすいので便宜上「距離感」と言っている。)
しかし、昨晩の夢で見たように、距離が取りづらい場面が社会には多々ある。リモートワークなどで少しは緩和されたであろうが、来る日も来る日も隣にはそいつ、向かいにはあいつと顔を合わせる。奇跡的に全員仲良しならよいが、そんなことは滅多にない。あったとしても部署異動までの束の間のひとときだ。
物理的に距離を取ろうと思うと、外の案件を無理やりつくって外出を増やすとか異動願いをだすといった極端な選択肢から、昼食を別々にとるとか、雑談する時間を意識的に減らすといったマイルドな選択肢まで、さまざまな工夫ができるだろう。
とはいえ、そうした工夫が得意な人と苦手な人がいる。苦手な人は、固定化された距離感の中で、固定化した振る舞いをする。それがその場では最も安全だからだ。
固定化した振る舞いを行うためには、流動的な自分を抑える必要がある。抑え込み続けるうちに、だんだん流動的な自分がしぼんでしまう。ただ、固定化された距離の中でうまく振る舞おうとした結果、なんと自分自身まで固定化されてしまった!
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