堂々巡り
昨年、世界は大きく揺さぶられた。私の仕事も例外ではなく、緊急ストップ。手を止め、足を止め、変則的な動きをしたりと非日常感満載の一年だった。
他者とのコミュニケーション量が圧倒的に減り、1人で過ごす時間も多かった。仕事が思うように進まないのはもどかしかった一方で、(不謹慎ではあるが)個人の暮らしという意味では静かで心地よいものがあった。
家で少しだけ仕事する日も多く、夜には散歩をするのが日課だった。日によっては、平日の昼間から散歩に出かけたりすることだってあった。
今年になってもなお世界は揺さぶられ続けている。
とはいえ、私の仕事は少しずつ忙しくなってきた。働き方も昨年とは変わった。仕事中心の生活リズムに、ある種の新鮮さを覚える。
仕事があることにありがたさを感じる気持ちが半分と、ただ歩いていただけの何者でもない生活を懐かしむ気持ちが半分。自分をどこか遠目から見ている自分がいる。
思えば、かれこれ20年近く、心の奥底ではいつも「価値」について考えている。
「価値なんてまやかしだ。まやかし以外の何ものでもない」
こんな感覚がずっと拭えないままだ。
よくある話だが、今テキトーに飲む1杯の水と、砂漠でノドがカラカラのときに飲む1杯の水は価値がまったく異なる。1万円を払ってでも1杯の水を買うだろう、と。
ビジネスの本質は(良くも悪くも)ここにある。ただのマッチングなのである。
残念ながら私はそこに大した面白みを感じることができない。もし「ランボルギーニを120円であげます」と言われても、私は多分買わない。車に興味がないし、転売するプロセスがめんどくさいと感じてしまう。そういう価値観なのだ。
また、ビジネス界隈にうごめくマッチングシステムをハックしようとする拝金お化けたちが厄介に思える。儲けるために、あの手この手で美化し、マッチングの純度を日に日に薄め続けているように私には見える。
歪んだマッチングゲームに勝つには、少なくとも負けない気持ちが欠かせない。勝とうと思うならそれだけでは足りない時代になった。他者を出し抜く必要がある。私のような人間は、そのような不毛な競争に熱くなれない。
どちらかと言うと、私はよく分からない水を生み出したい。そういうのが楽しい。
しかし、砂漠でノドがカラカラの人を見つけて「このよく分からない水をどうぞ」みたいな、あざといことはやりたくない。そういう自分に無自覚でいられる程度に鈍感ならば、あざとさも自覚できないまま、心からの笑顔でマッチングを喜べそうなものだ。
しかし、それを自覚できる程度に敏感であるならば、人々をカモのように扱っている自分自身と対峙しなければならなくなる。それはあまり気持ちのよいことではない。
そう、これは綺麗事だ。新自由主義的な社会の価値観において、綺麗事は通用しない。弱肉強食。自己責任。
はて、どうしたものか。
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