意味in、価値out
人を評価する世界に疲れました。最近はもう割り切って、ほとんど評価されるためには動いていません。
とはいえ、一生分の資産があるわけでもない身としては、適度に評価されないと生きていけないし、適度に評価しないとこれまた生きていけない。
そもそも、仕組みというのは、評価がともなうものです。社会そのものが一つの仕組みと言えますから、人類未開の地に暮らす以外では、今のところ評価とは切っても切り離せない人生を歩むわけです。
評価することもされることも息苦しい。
こんなことを思い始めたのは、ここ数年です。
テクノロジーが目覚ましい進化を遂げ、人間が生み出せる価値の量が減ってきました。今後、それは加速していくばかりです。
AIが盛り上がってくる以前は、まだまだ人間同士のマラソン大会でした。
現状維持志向の人があまりにも多いため、日々少しずつ向上していくだけで比較的自由な立場を享受できたものです。
風向きは完全に変わりました。
ある日、美術館を観てまわった後で「絵でも描いてみようかな」と思う。上達のプロセスを妄想しながら歩いて帰る。そのとき、スマホのニュースで、AIが描いた絵が画面に現れる。「素晴らしい」の一言。
こうなってくると自分で一から時間をかけてつくる「価値」はもうなくなってしまったなぁと思うのです。
何もアートのような情操的な分野だけでなく、巷で言われている自動運転やバックオフィス業務なんかは最たるものです。
人間が価値を生み出そうとする気持ちは、近いうちに枯渇してしまいかねない。
これを悲観的にとらえるなら、「人間用無し」ということになります。
でも、その前に「人間ってそもそも価値を生み出したい生き物なんだっけ?」いうところを問い直してみたい。
歴史的に見ると、権力者が支配し、ルールを決め、そのルールの元、人々は価値を生み出すよう強制されてきたと思います。
年貢だとか税金だとか、徴兵だとか…。
国の一員として守られるためとはいえ、人々は価値を生み出したかったのでしょうか?
生きていくために価値を生み出さざるを得なかっただけだと私は思っています。
確かに、昔は人間にしか生み出せない価値だらけだったから、今よりは価値を生み出すことに心理的ハードルを感じていなかったかもしれませんが。
現代は、「未来にも残る仕事」みたいなものを必死で追い求めている人たちがたくさんいます。
おそらく、生きるためなのでしょうが、なんでそんなに価値を生み出そうと必死なのか、最近はよく理解できなくなってきました。
99%の人が価値を生み出せなくなるのは目に見えています。多分、レースは中止せざるを得なくなるでしょう。
次の時代をつくらざるを得ない。
ほとんどの価値(すべてではない)をAIが生み出してくれるのなら、もはや人間が価値を生み出す必要があるのでしょうか。
私たち一般人も、かつての権力者のように意味を生み出す側にまわればよいと思うのです。
何も民衆をまとめ、国を治めるというようなスケールの大きい話を言っているのではありません。
小さな小さな意味で良いのです。
人間が意味を生み出して、AIが価値を生み出す。こんな感じで棲み分けできたなら。
「意味を生み出すってどういうことですか?」
その意味は自分で考えてみてください。
一例をあげると、
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