印象だけで語る人について
話が噛み合わない人を分析してみると、「印象」だけでモノを話していることに気づきます。
「印象」を持つことが悪いと言いたいわけではありません。印象というのは、対象物が自分の心に与える感じのことをいいます。それは、圧倒的主観という「私の始発点」とも取ることができます。
始発が重要なのは言うまでもありません。始まりのないものが一体どこへ向かうというのでしょうか。主観は大切です。
Hey Siri
中途半端に賢い人というのは、印象の使いどころがよく分かっていません。ファクトにばかり気を取られ、圧倒的主観を感知するセンサーがバカになっていたりするものです。合理的なことを言うのは得意なのに、自分の主観を認知し解釈することは苦手だったりします。「主観は合理的ではないから」と主観を軽んじているのです。
「データはよく分かりましたが、ところであなた自身はこれをどう考えますか?」と問うと、当たり障りのない優等生な回答か「いや、だからその…」と急にトーンダウンしてしまうわけです。
ファクトを拠り所にしているため、確かに一応会話は成立するような感じにはなります。何が合理的かぐらいまでは合意できそうです。
しかし、そのレベルのコミュニケーションはそのうちSiriとでもできそうだなと思います。
始発と終点と主観
ところで、肝心の意思決定は「主観」です。歌手を目指すより、公務員を目指すほうが、あきらかに経済的には安定します。
ところが、歌手を目指す人は存在するわけです。経済的に安定することが目的ではなかったりします。意思決定は「主観」でしか行うことができません。成功率90%の施策案と成功率10%の施策案があったときに、よく考えた上で10%の施策を選択することは普通にありうるのです。
こうして見ると、始発点に印象という圧倒的な主観があり、終着点にもまた意思決定という圧倒的な主観があることが分かります。
「そうか、大事なのは主観だ!」ということになりそうなものですが、それでは不十分です。
一体何の報告ですか?
圧倒的な主観だけで意思決定するとどうなるか。言うまでもなく、ファクト不在のただの思い込みです。妄想で意思決定しているのだから、この世界の誰ともその内容をシェアすることができません。妄想を共有されたところで、相手は「言っていることはよく分からないけど、唯一分かったのはそれがあなたの個人的な妄想であるということです」という回答で終わってしまいます。
つまり、冒頭に書いた「印象でモノを話している状態」です。
繰り返しますが、印象が悪いわけではありません。印象は「私の始発点」ですから、きちんと捉えておく必要があります。しかしながら、やはりそれは始発点でしかありません。「ここが始発点です!」とものすごい剣幕で言われても、相手からしてみれば「一体何の報告ですか?」ということになるわけです。
バランスの取れた主観(平均値ではない)
意思決定までの間に、しっかりと客観を挟んでいくことが大切です。ファクトを押さえておきたいものです。
主観も大切。客観も大切。つまり、「主観と客観のバランスが大切だ」という何とも普通の結論に至ります。
しかし、それらは同時にバランスを取るのではありません。主観と客観を何度も行き来することで、研ぎ澄まされた主観が現れます。バランスの取れた主観とは、主観と客観の平均値ではないのです。
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