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自分自身を作品として考える

物心ついた頃から、想像することが好きだった。

思い返してみると、絵に描いたような貧困母子家庭に生まれ、自分自身は入退院を繰り返す病弱な幼少期。貧困かつ病弱という二重苦の中、厳しい現実から逃避するために自然と想像の世界に逃げ込んでいただけなのかもしれない。

幸い家庭内では多大なる愛を受け、存在としての重要感は満たされていた。三重苦をまぬがれ、母のおかげで(また、よき友人たちのおかげで)殺戮系サイコパスに育たずに済んだと思っている。

創ることがずっと好きだった

想像の世界に浸りがちだった私は、頭の中では飽き足らず、何かと創ることが好きだった。

小学校の頃は、教科書やプリントの隙間にいつもイラストを書いていた。可愛いと面白いと気持ち悪いが混ざり合って、結局「個性的な絵を描くね」としか言えないようなものができたとき、何とも言えない達成感があった。

中学に入ると、授業中によく詩を書いた。この頃から、絵から文字にシフトした。言葉に魅せられるようになった。

中学3年に部活を引退した後は、バンド活動を始めるにともない作詞作曲をするようになった。感性とロジックの併せワザに全身全霊向き合った。以降、30歳を過ぎるまで作詞作曲に集中していた。

一昨年、34歳になる頃からエッセイを毎日書き始めた。それがきっかけなのか、バンドメンバーが脱退したことがきっかけなのか、新型コロナウイルスがきっかけなのか。おそらく、そのどれもが原因なのだが、すっかり作詞作曲をしなくなった。

創作意欲みたいなものが一応満たされてしまっているのだから、毎日のエッセイはきっと私にとって創る活動に含まれているのだろう

自分でも意識していなかったが。

自分自身を作品として考える

プロセスが好きなんだよ」という記事に書いたが、私自身は自分のエッセイを単体の作品として価値を置いていない

「時々どうしても読みたい記事があるから、単体でも買えるようにしてほしい」という意見をいただいた。考えた末、これまでどおり単体での記事は販売しないことに決めた。私のマガジンはプロセスを販売しているのだ。昨日に価値があるわけでもなければ、今日に価値があるわけでもない。昨日、今日、明日をつなぐ線としての価値に値段をつけている。

また、最近書いた「有料課金に込めた思い」という記事には、以下のように書いている。

私が「脳内議事録」というnoteマガジンを有料にしている理由は3つ。
1. 継続することに責任感を持つため
2. 誹謗抽象などノイズを消し去るため
3. 「存在」で生きていけるのかという社会実験

「昨日、今日、明日という線(プロセス)としての価値に値段をつけている」という作品の価値の話をしながら、「責任、誹謗中傷の防波堤、存在で生きるための支援窓口」という私側に固執した話をしている。

これらは一見矛盾するように見えるが、じつは矛盾していない。

昨日、今日、明日という線としての「エッセイ」の価値と読んでしまうと確かに矛盾する。しかし、昨日、今日、明日という線としての「私(うえみずゆうき)」の価値と読めば2つがつながる。

つまり、昨日、今日、明日という線(プロセス)としての私自身を作品ととらえ、「私」という作品に値段をつけている。「私」という作品を創ることを続ける責任感、それを邪魔させないための誹謗中傷の防波堤、活動(存在)継続のための支援窓口としての「脳内議事録」なのだ。

このように言語化することで、脳内議事録はさらに分かりにくいものになってしまった感が否めない。

しかし、それで構わない。私が私自身の営みをよく理解することが先決である。脳内議事録はこれからも続く。急がば回れ、である。

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