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一人ひとりに宇宙がある(スピリチュアルの話ではない)

一人ひとりに、認識があります。

当然のことながら、私が見ている世界とまったく同じ世界をあなたが見ているはずがないし、あなたが見ている世界とまったく同じ世界を私は見ることはできません。

奇跡的に同じような境遇で、同じようなアングルから世界を眺めたとしても「似ているね!」が限界です。「私はあなた、あなたは私だね!」ということにはなりません。

一人ひとりに認識がある。

これを大袈裟に言うなら、「一人ひとりに宇宙がある」と言えます。

マイノリティは比較的それを自覚しやすいものです。普段、自分は周りから浮いているのだから「みんな一緒なはずがない」と経験の中から学びやすいのでしょう。

中には、「自分だけがおかしいんじゃないか」と気を病んでしまう人もいるようです。

自意識過剰が原因の人もいますが、多数派のみなさんにも、ぜひ気をつけていただきたいのです。

というのも、多数派と言われる人々ほど、つい「みんな、そうだから」を理由に、その事柄に対して思考を止めてしまいがちだからです。

もし、一人ひとりに宇宙があるのだとしたら、「多数派の認識」という括り、そのものに違和感を覚えることでしょう。

「普通」って何だろう?

物事はおおよそグレーで、グラデーション。

人々が世の中のことをシロかクロかで語るのは、単純にそのほうが分かりやすいからであり、それ以上の理由はありません。

分かりやすいのは良いこともたくさんありますが、粗い解像度の認識が別のトラブルを生んでしまうこともあります。

私は、いつだって「一人ひとりに宇宙がある」という前提に立ちたい。心の平穏を保つためにも。

「居ても居なくてもよい存在」ついて。

たとえば、人を「機能」で見ることは大変危険です。

「機能」で人を評価すると、居ても居なくてもよい人は、実は山のように存在します。「みんな、何かの機能を果たしている」というのは、きれいごとと言わざるをえません。

たとえば、私が明日死んでも、世界は何食わぬ顔で回り続けます。ごくごくごく一部で不具合は起こるかもしれませんが、世界を揺るがすような変化は起きない。

取り替え可能なのです。

AIの進化に合わせて、(機能的には)居ても居なくてもよい人は増えるばかり。

役立たずは、生きている意味なんてないのでしょうか?

実は、ないかもしれません。

では、そんな人たちは死んでいけばよいのでしょうか?

よくない理屈として、「一人ひとりに宇宙がある」を私は持ち出したいのです。

だとすると、都合のよいときだけだけではなく、日頃からそういう考えで生きていたいなと。

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