強くて弱い、弱くて強い存在
前回、人はなぜ傷つくのかについて書いた。
その話の延長で、「あなたは強いのだ」と言われた。それがしっくり来ず、「決して、そうではないよ」ということを説明したのだが、なかなかうまく伝わらない。
他者と認識を共有するのは人類の永遠の課題だろう。せっかくだから、もう一度ここで「強さと弱さ」について言語化してみたい。
傷つくことに対するサイコパスっぽい見解
私は傷つかない。客観的事実と評価者の主観と受け手の主観と感情と論理を分けて理解するから、傷が傷として成立しえない(詳しくは前回記事へ)。
私のようなサイコパスの視点から物申すならば、トラウマレベルの傷以外を「傷ついた」とは到底受け止められない。単に「論理的思考が働かなくなっているんだろうなぁ(感情が爆発しているなぁ)」と3歩引いて静観してしまう。
これは他者に対してだけでなく、自分自身に対しても同様の眼差しである。今、私はイラッとしているなぁ。それは多分自分の思い通りにならなかったからであって、ともすれば他者の行いに「〜であるべき」と自分でも気づかないぐらい心の奥底でそう思い込んでいたのだろうな、などと自分に起こった感情を論理的に分析していく。
感情を分析的に見つめられる程度に論理的思考が十分に働いているため、決して傷つくことはない。
仮に、「傷ついた」と感じるようなことがあったとしよう。そのとき、一体それは何なのかと掘り下げていく。そのうち、「自分をもっと理解してほしいという相手への期待と、現実のギャップにただ駄駄を捏ねているだけなんだ」と気づく。傷がすぐに形を変えてしまい、傷が傷のまま成立しえない。
「傷ついた」と言うとき、それは何らかの感情の動きを「傷ついた」と表現しているに過ぎない。論理的に考えればその感情は一体何なのか。なぜそのような感情が起こっているのか。完璧ではないにせよ、ある程度の説明はつく。ある程度説明がついたとき、完全なる被害者である可能性は極めて低い。
被害者として傷として成立しうるのは、虐待であるとか戦争であるとか災害であるとか、個人の力の及ばないところの論理的思考の入る余地のないトラウマレベルの何かであると言わざるをえない。
これが、サイコパスっぽい見解である。
強くて弱い、弱くて強い存在
世の中には、サイコパスは100人に約1人の割合で存在すると言われている。ここまでの内容は、いたって自然な感覚を記したつもりだが、おそらく多くの人には賛同してもらえそうにない。中には、「そんなことを考えている無慈悲なモンスターがおるのか!」と驚かれてしまったり、文章を読んだけで傷ついた人もいるかもしれない。ごめん。
果たして、傷つかないことは強さなのだろうか。私はそうは思わない。
そもそも強さなんてものは、前提となる視点をズラすだけでいかようにも解釈できる。
たとえば、赤ん坊は弱いのか。確かに、彼らは自分では何もできない。無力に見える。そう言う視点において、赤ん坊はクソ弱いのかもしれない。しかし、泣き喚くだけで周囲の大人たちを馬車馬のように働かせることができる。そう言う視点において、そこらへんの王様よりはるかに強いとも言える。
私たちには決して真似できない。試しに、私がその辺で寝っ転がって泣き喚いてみたところで、警察を呼ばれるのがオチだ。赤ん坊は、赤ん坊にしか持つことのできない強さと弱さを内包している。強さ「と」弱さである。強さ単体、弱さ単体では決して語れないのだ。
サイコパスもまた同じである。
「傷つかないって強いね」
そのような見方もできるが、傷つかない性質は、誰かの傷を理解できない性質とも言える。
誰かの傷に寄り添おうとするとき、「ごめんなさい。こういうときどんな顔すればいいかわからないの」となる。心からの共感ではなく、寄り添おうとするフォームの真似事、寄り添ったフリしかできない。
誰かのことを大切に思うことはある。しかし、大切な人の傷の意味はよく分からない。論理的に考えれば説明および対処可能なものを、いちいち説明不可能な状態のままにして沈んでいるのだから、頭に「?」が浮かび続けてしまう。
かろうじて「傷ついているんだな(感情が発火し、論理的に考えられないんだな)」ということを理解し、刺激せず、そっとしておくことはできる。しかし、どのようにそっとされるのがよいのか。どのように寄り添えばよいのか。まったくもって見当がつかない。傷ついたという感覚が体感として理解できないから、想像力が及ばないのだ。これを弱さと言わずして何と呼べばよいのか。
人は誰しも強くて弱い、弱くて強い存在なのだろう。何事も表裏一体であることを忘れないようにしたい。
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