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私が人を信じる基準

私が人を信じる基準は、その人に「持論」があるか。ただ、その一点です。

その人が持ち続けている、その人独自の主張があるか。

主張とは、強い意見です。意見とは、論理的に筋道を立てて答えを出そうとするプロセスを経て得た結論のことをここでは指します。

たとえば、「思った」は意見として弱い。思いつきに限りなく近く、そこに至るまでの再現性(論理性)が低いのです。

「信じてほしい」と言われても「あなたが思っているということは信じるけど、私までそれを信じたりはしない」ということになります。

小難しい話をしましたが、「意見」については曖昧さ回避のために明確にしておかなければと思った次第です。

まとめると、「持論がある」というのは、「その人が持ち続けているその人なりの強い意見がある」ということになります。

「その人が持ち続けているその人なりの強い意見がある状態」を、なぜ信じるのか?

まず、「持ち続ける」と「強い」には感情が存在します。その人の本気感、熱量がそこで見えて来ます。

次に、論理的に筋道を立てて出した答えとしての「意見」がある。熱量の裏づけと言えるでしょう。

言い換えるなら、持論を持っているということは、感情と論理のバランスがうまく取れた状態とも言えるわけです。

これを人として理想的な状態だと私は思っています。

もちろん、自分とはまったく意見が異なる、賛同できない持論だって山ほどあります。けれど、持論を持っている相手に対して心から敬意を払うし、相手の人となりを信じます。

何も、その強い意見になびくということではありません。お互いの強い意見を侵害しない程度のちょうどよい距離感を模索するだけです。意見が違うからと言って、嫌う必要はありませんね。

私としては、持論はないけど私に肯定的な人と、持論があって私に否定的な人なら、後者のほうが信用に足ると思っています。

ただ、日本の高コンテクストな、言葉にしない察する文化背景では持論を展開するのはなかなか難しい現実があります。

「正直な意見を言うと相手を傷つけてしまうから、意見は言わない」

そう考えている方は多いと思います。ただ、「正直な意見を言う」というのはアウトプットなんですね。アウトプットしないからといって、持論を持っていないというのはいかがなものでしょうか。

(あ、この人は持論を持っていない人なんだな)

と高コンテクストで察せられてしまいますよ。


追伸

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