日記と個人用脳内メモ

詩を書き始めたのは嘆きや叫びで、そこから少し褒められたり、いいといってもらえて、だったらもっとと思った。
自分なりに何かを――と思ってやってみて行き詰まって、嗚呼 と思ったり、思い直して挑んだりしてきて、10年くらいは悶々としている。

近年、だいたい2020年あたりから僕のはじまりは心の吐瀉物であって料理じゃなかった。そして、僕には料理人のように感情を料理した作品が難しいかもしれないと思った。

鼻水垂れ流しながらわたったり泣いたりしてる姿が好きって言ってくれた人に嘘笑いや嘘泣きみせようとしてたのかなぁと思ったら、心が楽になった。

創作行為はセルフプレジャー(言い換えておこう)みたいな言い方もあるけれど、それもまた事実。だけど、人様のセルフプレジャーやまぐわいが時に誰かの心臓を掴んで離さなくなることもあるし、それがいいと思う人もいるけれど、しかしよく考えると、そこにはフェイクがあって、感情が本物でも、行為には嘘がある。という状態が成立しているし、それは、時折耳にする演じるという話や、体験していないことの創作にも相通じ始める気がしている。

僕は感情ごと嘘をつこうとしていたのかもしれない。という、次の段階の気づきを得て、なんだか何かを悟ったかのような気になっているが、明日にはきっとまた元の木阿弥。

苦悩の中に戻るのだろう。

ただ、むかし、たしか「最後の講義」で柄本明さんの回で感じたことのなかで、

違和感を感じる演技と違和感を感じない演技があると感じたときにおもった、

その状況下におかれた自分の感情がセリフを含む動きにこもっているのかの違いがあるのかな

とか、

別の人間を「演じ」ることの無理難題さ加減を想像したときの、その隙間を埋めるものって、でも、喜怒哀楽の4つの感情を加味したどの点に自己の感情の矢が刺されば近似値になるのかを想像したらいいのかなあ?

とか、

何もわからないくせに、なにもわからないからこそ、誰とも答え合わせをする気もないし、する機会もない自分のなかで、あの感情は僕のあの日の(誰かのこの日の)あのときの感情に似ている気がする。

という、アプローチが、唯一の正解になりえなくても、ひとつのアプローチをするための、X番のクラブのような使い方ができるんじゃないかと思ったときの記憶が、

嗚呼、そうか、詩作をするときの、背伸びの仕方が間違っていたのは、そういうことをする心がけを、偶然にまかせて、でまかせにしていたからなんじゃないか。

という、的外れかもしれないひらめきとして今ここにうまれた。


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八岐屋ともく
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