【モプライズ】誕生日のサプライズについて思うところがあるので、ミームを提案したい
私は誰かを祝うという行いが好きだ。創作物を見聞きしていても、特に"祝福"のようなものにはめっぽう弱い。
いきなりアンデッドのような属性を公表してしまったが、ようは祝い事っていいよね、ということだ。
しかし日常において行われるお祝い、就職・卒業そして誕生日などは祝福というよりも、その機に乗じてみんなで贅沢しようという意味合いが強い気がする。それでいいと思う。とても健全な営みだし、私もそのようにしている。
ただ、その機に乗じすぎていると感じるものが一つある。
それが「サプライズパーティ」だ。
私はあれに何とも言えなイヤさを感じる。しかし、何とも言えないけどイヤというあやふやなイメージで、本来楽しいであろうはずのイベントをとり逃すのももったいない。そう思って何がイヤかを言語化してみた。そして、それを解消できる案を思いついた。そういうお話。
結論をふんわりというと「におわせよう」だ。
サプライズの問題点
まずは私がサプライズに感じているイヤさを説明しておこう。今回は誕生日の人に対するサプライズという前提で、かつパーティの有無にかかわらず、「サプライズ」省略として書く。誕生日の人は「本人」とする。
ちなみにここは読まなくても改善案の項を読むのになんの支障もないので、読み飛ばしてもらっても構わない。
私が言語化できたサプライズのイヤさは以下のようなものだ。
本人がハブられる
そりゃそうだと思うかもしれないが、本人に何も知らされないというのは由々しきことだ。それは当日当時までに何も準備ができないということで、本人にとってみれば自覚すらできないとても恐ろしい悪夢だ。
私が中学2年生の冬の時だ。当時の副校長がその年度で定年を迎え退職するとのことで、ある日の全校集会の後にみんなでお祝いをしようというムーブメントが校長主導で行われた。当日、いつものように集会を終えると、周知されていた打ち合わせ通りに副校長が壇上にうながされ、全校生徒の拍手の中、花束が手渡される。司会の先生がマイク越しに一通りのいきさつを説明し終える、副校長にマイクが渡される、軽く答辞を述べるのだろう。
副校長の話は、めまいがするほどつまらなかった。
つまらないだけなら、当時中学生だった私には理解しにくい内容だったともとれる。しかしその語り口は明らかに、頭の数㎝先あたりで考えながら言葉をつないでいた。加えて残念なことに、その内容はその場にまるでそぐわない話だったので目も耳も当てられなかった。
話が終わった後の、張り詰めてるんだか緩んでいるんだかわからない静寂。そしてそれをどうにかかき消そうと拍手する校長の姿が、今でも頭にこびりついている。
準備ができないということは、このような悲劇を生みかねない。作家や噺家など言葉を武器にする職ならまだしも、素人が何も知らないところから急に「サプライズだよ」などと言われても、すっかりビビってしまって、気の利いた返事などする余裕はない。本来楽しくなってもらいたいはずの本人はその日の夜、枕の下に手を埋めてうつ伏せで深呼吸することになるだろう。
性質上仕方がないものだとしても、本人がハブられ、何も知らない状態でサプライズされるのは問題点だといえる。
企画側が楽しみすぎている
これがあるかはコミュニティにもよるが、サプライズの性質上起こりやすい問題だ。
先にも書いたとおり、サプライズは本人には知られないようにするのが前提なので、企画を実行していく上で少なからず秘密が生まれる。そして秘密を共有すると身内での結束が強まり、企画の準備は楽しいものになる。さてこの楽しくなるということ、それ自体はとても良いことだ。本人をダシにして楽しむなとも言わない。ただし問題なのは、ここでの楽しみが「企画を行うこと」に向いてしまっているということだ。つまり、本人を祝う、本人を楽しませるという"目的"ではなく、その"手段"を実行することが第一に来てしまいかねないのだ。
この説明だけだとあまり問題と感じにくいかもしれない。たしかに、企画側も本人に無条件の奉仕がしたいわけでも、ましてや仕事でやっているわけでもないので、楽しんで企画を行うことは肯定されるべきだろう。では何が問題なのか。これは次の項にもかかわっていることなので、続けて書くことにしよう。
失敗を想定していない
これだ。
ここでいう「失敗を想定する」とは「失敗をしないために準備をしよう」ということではなく、「それでもなお失敗した時にどう対処しよう」という意味だ。ちょっと仕事っぽい言い方になったので労働アレルギーの人向けに言い換えると、「ちょっと気まずくなりそうなときにどういう方向にもっていこう」ということだ。
なぜ企画を楽しんで行うことが失敗を想定していないということになるのだろうか。企画を楽しみすぎると、企画のゴールが変わってしまうからだ。
少し話はそれるが、失敗を想定するという話に「出る前に負けること考えるバカいるかよ」とアントニオ猪木の言葉を言いたがる人がいたりする。
その考え方は悪いものではないんだけど、企画などにおいてこれを言ってしまうと、適用する状況が間違っていることになる。例の言葉は試合前に発言したもので、これは試合や勝負事と同じ性質を持つものにしか適用できない。
同じ性質を持っていないと適用できないのは、勝負事と誕生祝いを、結果への到達という軸で比べてみればわかりやすい。
まず、勝負事はその字の通り勝ち負けを決める目的で行うものだ。図のように最終到達点は必ず勝敗の決定で、もし望まない結果になったとしても、その勝負がそれ以上進行することはない。負けを確認してから手を打つことはできないので、勝ちを前提に考えるしかない。
ここで元の話に合流しよう。誕生祝いの目的は本人を祝い喜んでもらうことだ。そこに到達するまでの物事は原則的に手段であるはずだ。しかしここで企画側がサプライズの準備を楽しんでいると、サプライズをすることが最終到達点だと錯覚してしまう恐れがある。するとあたかも勝負事と同じ構造のように捉えてしまう。「サプライズする前から失敗すること考えるバカいるかよ」というわけだ。本来ならばサプライズが失敗してもいいように別プランやフォローを考えておくべきだが、もはやそんなことはどうでもいいのだ。サプライズがしたくてたまらないのだから。
提案したい解決策
さて、すっかり卑屈な文章で埋まってしまったが、ではこれらを解決するにはどうしたらいいんだろうか。それが冒頭に述べた「におわせる」というものだ。具体的に言うと、企画側に内通者をおくのだ。
このミームのもつ意味が "サプライズ風"にすること、なので、ドキュメンタリー風の演出形式を指す「モキュメンタリー」にならって「モプライズ」として提唱したい。じつに安直で明快な命名である。
内通者の役割
内通者は企画側から1~2人程度、秘密裏に行動する。内通者は、サプライズを企画していること・いつどのタイミングでやるか・本人はどうしていればよいか、などを本人に伝える。このとき、直接的な言及はしてはいけない。内通者と呼んではいるがあくまで企画側の人間であり、かつサプライズの原則として本人に教えてはいけないのだ。内通者にできることは、限りなく察しやすく発言することとボロを出すことだ。
内通者が気をつけるべきことはもう一つある。それは、自信が内通者であること・サプライズが本人に知られていることを企画側に気づかれないようにすることだ。先に述べた通り、サプライズは秘密を共有するから企画側が楽しくなる。もし途中で秘密でないことが知れれば、形式的にサプライズのような茶番を演じることになり、誰一人として得をしなくなってしまうだろう。あくまで大半の人間には秘密であると信じていてもらわないと、サプライズがもっていた楽しささえ失うことになるのだ。
内通者をおくことのメリット
「まず失敗しない」はわかりやすい。なにしろサプライズされることを本人が知っているのだから、予定調和的に成功する。それどころか、サプライズの成否を本人にゆだねることさえできるのだ。どちらになったとしても、本人が望んだ結果であるのなら何よりの成功となるはずだ。
「従来の楽しみ方もできる」これが重要なところだ。変更が加わるのは内通者と本人だけで、それ以外の企画側の人間はこれまで通り秘密を共有して楽しめる。やっぱりコソコソと何か企むって楽しいのだ。
「内通者が楽しい」ここまで読んで内通者をやってみたいと思うような人間ならわかっているだろう。この中で一番の秘密を抱えているのは内通者なのだ。こんなに楽しいことはないだろう。
まとめ
今回提案した「モプライズ」は想定していないデメリットもあるかと思うが、少なくとも前半で挙げた問題はすべて解決できたはずだ。本人はハブられないし、企画側が楽しみすぎて本末転倒になっても問題ないし、失敗した場合も目的達成に支障はなくなった。
最後に一つ追記しておく。「モプライズ」の本人に知らせておくという考え方は、特筆して新規性のあるものではない。公式な場で行われるものの大半はそのように行われているだろうし、テレビ番組のいわゆる「ドッキリ」も、危険なものは恐らく了解が取れているのだろう。だからこそ、安易に見た目だけまねてサプライズを仕掛けるべきではないと思う。タネも仕掛けもあるマジックを素人が見よう見まねでやってみても、人からもらった一万円札は元に戻らず、指は切断されるだろう。人を笑顔にするのは魔法ではなく、地味で大胆な裏工作なのだ。
※モプライズを実践したことによるトラブルや
内通者が失った信用などについては一切責任を負いません。