ガザの名
†岡真理『ガザに地下鉄が走る日』
生きることが原則的に無条件で保証される国民国家の隙間で、その生の保証もなく、法外な暴力が日々行使される場所がある。現代の収容所とも呼ばれる場所が、パレスチナ、ガザ。
正直、ガザの名は耳に聞いたことはあっても、一度もその像がはっきりと頭に結ばれたことはなかった。国境のない島国で暮らすだけで、どれほどの死角に囚われていることか。
無関心は、次の暴力、ジェノサイドを用意している。その死角に囚われてしまった瞬間、人間は人間であることをやめてしまう。
ガザの、パレスチナの人々が被っている途方もない貧困に応える義務が、ある。それは恵まれた先進国で生きる人間の義務というより、人間が人間として、それを糧に生きることができるかが賭けられた、曲がりなりにも人間として生きてきたすべての人類に課せられた義務だとおもう。少なくとも、この本を読んでしまったら、そこから逃走することはできない。
耳にうるさくとも、繰り返し伝えなくてはならないことはある。正義論がモードとしてもてはやされた時代を越えてなお、言われなくてはならないことはある。
もちろん、貧困や暴力の根絶といった義務に応える道はひとつではない。人間はいきなり大それた目標は達成できないし、他者に対する関心も湧いてはこない。だから、それぞれがそれぞれのやり方で義務に応えればよい。おこなえる限りでの寄付や援助をしてもよいし、パレスチナでの惨状を知らない者に情報を伝えることでもよい。
だがまずは、そして最大の敵は、内面化された、そして構造に潜む無関心を分析し切り崩すことからだろう。そしてその作業は、自らの手で、自らの心に問いかける形でおこなわれなくてはならない。自分は何を、どのようなやり方で見過ごし、それによってどう生きてきたのか。その無関心を生む自らの盲目の法則は何かを問いかけるかたちで。