焼野にて
爆ぜる音がする。あらゆるものが爆ぜる音が。
草木が、花が、家が、虫が、動物が。人の髪や皮膚や、肉が爆ぜる音がする。
何もできない。何もできず、ただ目の前で起きている惨状を呆然と眺めるだけだ。目の前が真っ赤に染まる。火の手がすぐそこまで迫っているのに、足が竦んで逃げ出せなかった。
今でも夢に見る。その度に、全身がただれるような熱に覆われてユミルは目を覚ます。目が覚めた場所には燃え盛る炎はないというのに、頭から足の先まで、燃えるように熱い。
あまりに現実味を帯びた夢に、いつも裸足で立ちつくし、目覚めた後も心臓が暫くは早鐘を打って止まない。
夢の中のユミルの村は、全て灰になっていた。
凡そ半年前、ユミルの暮らしていた山は、大きな山火事で跡形もなく燃え尽きた。
ユミルが、母親とまだ小さい弟と山の一画を均した畑で作業をしていた時、遠くから人の叫ぶ声がした。それから少しの間をおいて、鼻を塞がれるような煙のにおい。背の低い弟にはまだ感じられていないようだったが、ユミルと母親はすぐにはっとした。鍬や籠を下ろして、母親が弟を胸に抱えた。すでに集落の方角にはもうもうと煙が上がっている。今までにも小火のような小規模な山火事は数年に一度だが経験したことがあった。しかし、今見えている光景は、これまでの山火事とは違っていた。集落の方へ向かうと、そこには既に見覚えのある集落はなかった。
ごうん、ごうん、と地面が鳴る。バチバチと木々が叫んでいる。そしてそこに、逃げ惑う人の悲鳴が混じる。焼け崩れた家に押しつぶされた人、それを引っ張り出そうとして一緒に燃えている人、まだ首も据わらぬ赤ん坊を抱いて炎から逃れる人、素足を傷だらけにしながら山を駆け降りる人。目に映るそれらを、黙って見ていることしかできなかった。
「ユミル!」
母親に手を強く引かれ、ユミルは我に返った。
山を下りる人々について、母親と弟と、ひたすら火から逃れるために足を前に出した。
風は生憎の追い風だった。そのせいで、火の回りも煙も激しい。弟は初めて嗅ぐ煙の臭いに驚いているのか、咳込み、顔を激しく横に振りながら泣き叫んでいる。泣くたびに煙を吸い込んでいるからか、咳込み方が尋常ではない。
「母さん……」
息を切らしながら、弟の様子を慮る。母親も、頷きで返事をする。このままだと、火から逃れられても弟は死んでしまう。全員無事に生き延びなければ。その一心で駆け下りる。
気が付くと、火の手はあっという間にすぐ後ろまで来ていた。随分と山を下りたはずなのに、麓に辿りつくのに、奇妙なほど長い時間がかかっているような気がした。熱気と煙で呼吸もままならない。弟は既にぐったりしていた。顔からも生気がどんどん失われていくのがわかる。後ろから迫り来る火に、どうすることもできない。ここで立ち止まっては、全員死んでしまう。死にゆく弟に何もしてやれない無力さに唇を噛みしめながら、もう何も見たくない、考えたくない、この悪夢が早く覚めればいいのにと思っていた。
次にユミルの意識が戻ったときには、周囲には誰もいなかった。弟を抱えて一緒に逃げていたはずの母親も。
そして、近くを通りかかった男に身なりや状態を怪訝に思われ、その男に引き取られたのだ。
震える肩を両手で押さえつけ、治まるのをじっと待っていると、部屋の入り口から大きな頭が覗いた。手を緩めてユミルはそちらに目を向ける。
「エンラおじさん」
「よう。悪夢は相変わらずかい」
がたいのよい巨躯とつり上がった太い眉のエンラに、初めて会った時はユミルも委縮していた。いかにも気難しそうな大男だった。ところが、恐ろしい見た目に反してエンラは優しい男だった。妻のヌィムとともに、燃え尽きた山から一人で降りてきたユミルを家族として迎え入れてくれた。今では本物の親とはいかぬまでも、叔父、叔母のように思っている。大きな肩から生えているような、日に焼けた顔を見上げ、ユミルは小さく頷いた。
「うん」
つり上がった眉を心なしか下げて、エンラはそうか、と首を縦に何度か振った。
「今まで生きてきた村がまるまる消えたんだ。仕方ないさな」
ゆっくり休め。忘れることはできなくても、いずれ悪夢は薄れていくさ。そう、幾度もユミルに掛けてきた言葉を今日も掛け、エンラは背を向けて「朝飯出来てるぞ」と大きな手を鷹揚に振って部屋を去った。ユミルは着崩れた寝間着を軽く直し、布団を片手で折り畳んで、素足を床にそっと置いた。ひんやりとした木の感触が、ユミルの熱を足の裏から冷ましていく。小さく息を吐いて、ユミルはエンラとヌィムの待つ部屋へと向かった。
「おはよう、ユミル」
「ヌィムおばさん、おはよう」
ヌィムは温かいミルクと丸パンをテーブルに置いた。
二人に拾われてから暫くは、ユミルは口がきけなかった。是のときは首を縦に、非のときは横に振る。それだけが人との会話だった。笑うことも、泣くことも怒ることもせず、ただ与えられた部屋に籠っていた。
そんな折、ヌィムが部屋を訪ねてきて、ゴマ粒ほどの小さな種を数粒、ユミルの右手に握らせた。
「あたしの生まれ故郷でたくさん育てられてた花だよ」
ヌィムは生きてきた年月を語るような、分厚く赤らんだ皺だらけの手でユミルの両手を包み込み、静かに笑った。
「どれだけ天候が荒れて、他の作物や土地が駄目になったって、この花だけは枯れ果てた土地から何度でも目を出して、力強く咲くんだ。アルルと言ってね。あたしの生まれ故郷の言葉で、『再生』という意味を持つんだよ」
それを聞いて、ユミルは胸につかえていたものが取れたような気がした。堰を切ったように涙が溢れ、ヌィムにしがみついて大声をあげて泣いた。
その日から、少しずつエンラとヌィムと口をきくようになった。ぼろぼろの格好でいた理由、気が付いたら一人になっていたこと、おそらく自分の家族はもういないこと。
ヌィムは涙ぐみ、エンラは険しい顔で何も言わずに、ユミルの話をじっと聞いていた。
そうか、山火事でなあ……。
エンラがぽつりと呟いた。山火事があったことは知っていたが、集落があったことは知らなかったのだろう。ヌィムはユミルに父母の名前を尋ねた。町へ出たとき、行方を知っている人がいないか探してみると申し出てくれたのだ。
小さくありがとう、と答え、
茶色と灰色ばかりの山に、ユミルは毎日足を運ぶ。カンカン照りの日も、大雨の日も。死んだままの山の再生を、じっと見つめ続けている。
母の、父の、弟の、そして山で共に生きてきた住人たちの命が埋まっている山を。
陽が傾き始めた頃、エンラの家に身を寄せてすぐにヌィムがくれたアルルの種子を、ずっと仕舞っていた巾着から掌に出した。
3粒。母と、父と、弟の分だ。
ユミルは手で灰と土を掘り起こし、一粒一粒、丁寧に指で窪みに置いていく。その上に再び土をかけ、水を数滴垂らした。
どんな花が咲くのか、いつ芽が出て、茎が伸び、蕾が花開くのか、何も知らない。
だが、ここで尽きた命の上に咲く花は、きっと美しく逞しいのだろう。まだ見ぬ花が再生を運ぶことを、ユミルは確信していた。