忘却
人の記憶は脆い。簡単になかったことになっていたり、都合のいいように書き換えられていたりする。だから僕は、人の記憶、人の心ほど信用できないものはないと思っている。
僕のこの視界だって、いつからこうなってしまったのかわからない。僕の見る世界はずっと青い。どこまでも青が広がっている。風景や、建物や、人の顔でさえ、深さが違うだけで、全部青だ。見えるものがすべて青いと気づいたのは、確か五つの時だったと記憶している。とはいえ、幼い頃のことだからそれすらも曖昧なもので、ましてや気づいたのがその頃だというだけで、もしかしたらずっと、僕には青しか見えていなかったのかもしれない。青。蒼。碧。青だけの世界だからといって、不自由している訳ではない。月や花が綺麗だと言われればそうだねと頷けばいい。人の感情は表情や雰囲気で判断できる。すべてが画一的な青ではないから、退屈もしない。青に埋め尽くされた生活を、僕は僕なりに楽しんでいた。
今日も、僕は濃い青に縁取られた水色の食パンを藍色に近い青のコーヒーで胃まで流し込み、光沢のある青い合皮製のビジネスシューズを乱雑に履いて家を出た。今日はやや余裕がある。いつもより二本ほど早い電車に乗れそうだ。早く着いたらビルの中にあるカフェでもう一杯くらいコーヒーを飲もうかな。どのブレンドにしよう。スマートフォンで軽く今朝のニュースを確認しながらつらつらと考えている間に会社の最寄り駅に着くというアナウンスが聞こえた。それから数分ほど揺られていると、電車はゆっくりと速度を下げ、慣性の法則で僕の体は左へ引っ張られ、元の位置へ戻ったところで電車が止まった。青い人の群れに押し出されるようにして開いたドアから出る。ぷしゅううう、と背後で電車が鳴いて、次の駅へと発車していった。多くの人間を吐き出したが、それと同等の数の人間をまた無理やり飲み込まされて苦しそうなその音が、やけに耳についた。
駅の改札を抜けて数分。職場まであと数十メートルといった距離。ちかちかと点滅していた青信号が赤に変わった、らしい。点滅し終えると同時に僕は立ち止まる。信号待ちをしていた僕の目の前で、止まり損ねた自転車と右折してきた乗用車が衝突した。重く固いものがひしゃげる嫌な音がして、真っ赤な鮮血がそこに飛び散った。あれ? 赤い。と思った。青以外の色彩をとっくに忘れてしまっていたけれど、血は赤いものなのだと知っていたから、すぐに赤いのだとわかった。青一色の視界に、突如現れた赤。色相環で補色の関係にあると美術の授業で習った二つの色だけの景色は、ぐにゃりとして奇妙で気持ち悪かった。何かがちぐはぐだ。グロテスク、とでもいうのだろうか。色も、時間も、空間も、何もかもがない交ぜになっている。瞳の先で、ふたつの映像が重なる。喉を熱く濁った塊が迫り上がってきて、僕は青い液状を吐き出した。色彩が戻ってきたのかと錯覚しそうになったけれど、今もやはり血以外のものはすべて青い。
なのに、重なった映像には赤以外の幾つもの色が散りばめられていた。目の前の景色がフェードアウトして、入れ違いに頭の中の映像はどんどん鮮やかになっていく。
交差点。目線の先には木造の古びた駄菓子屋があって、その目の前にアイスの入ったクーラーボックス、その左隣に真っ赤な郵便ポストが立っている。奥には目の奥が痛くなるほどの緑を芽吹かせた山々。忘れたはずの色彩は、細胞を透かして脳に侵入してくる。「早くう」まだ声変わりのしていない幼い少年の声がする。耳からというより、直接頭に響いているようだ。これは、僕の声だろうか。それに呼応するように、「待ってよう」とくぐもった声がして、駄菓子屋の中からもう一人、少年が飛び出して来た。あれは……誰だったろう。あの頃の僕は目が悪かったような記憶もないけれど、少年の顔は滲んだ水彩絵の具みたいにぼやけて、表情が伺えない。少年が飛び出した先にあるのは、普段決して車通りの多くない道。彼は駄菓子屋の入り口から駆け出し、僕は手を振って待つ。僕の方に近い車線に差し掛かったとき、パーっと派手なクラクションの音が右耳を劈《つんざ》いた。少年の体が足を貼り付けられたようにびたりと止まり、その体はどこに引っかかったのか、僕の右側から視界に飛び込んできた軽トラックに引きずられて、数十メートルも赤くべたついた線を引いた。見たくもないアートだった。少年が飛び込んで来たのを見てすぐに踏んだのであろう急ブレーキも、通常の速度で走っていた自動車では、無意味にも等しかった。目の前で起きた惨劇に動きたくないと叫ぶ足を叱咤して、僕は亀の歩みで軽トラックと真っ赤に染まった少年の元まで駆け寄った。少年は、右半身が捲れて赤みが剥き出していた。ぬめりけのある赤には砂利が付着して、むわっと濃い鉄の匂いを立ち上らせている。ああ、死んでしまっている。さっきまで薄橙だった体が、半分赤くなっている。僕のせいだ。僕が、早くなんて急かしたから……。この人も死んでしまうのではないかというほど狼狽しきった軽トラックの運転手と地面に横たわる少年を、惨状を目の当たりにして妙に静まり返った感情で交互に見ながら、僕の記憶はそこで途切れた。
気がついたときには、少年の葬儀の最中だった。葬儀場には真っ黒な人たちがたくさんいて、空気はどんよりとしていた。
「善朗があ、善朗があ!」
女のひとが叫んでいる。そうだ、思い出した。よしくん。あの少年は、よしくんといった。僕とよしくんは、同い年で、家も自転車を漕げばすぐのところにあったから、よく遊んでいた。あれは、よしくんのお母さんだ。家を訪ねれば、いつも優しい声音と柔和な笑顔で僕を迎えてくれた。よしくんのお母さんは、人の良さそうな瞳、その周囲を真っ赤に染め上げて、涙をぼろぼろと零しながら髪を振り乱して喚いていた。途中から、言葉さえ吐き出さなくなって、うまく酸素を吸えないまま、紅潮した顔はぶるぶる震えていた。その形相がまるで僕を喰らいに来た鬼のようで、僕は磔にされたみたいな気分になった。喜朗、喜朗、と狂ったように呼気とともに吐き出す名前が僕の意識を覆い尽くして、それが意味を伴わなくなった時には意識を失っていた。丸二日も眠り込んだあとに目を覚ました僕の瞳は、もう青色以外の色を映しはしなかった。
時折、真っ青なフラッシュバックが脳裏で起こって、僕は手のつけられないほど叫び、暴れた。落ち着くまで母親が僕を抱きしめ、大丈夫、大丈夫と耳元で囁き続けた。あの頃の母親の腕や首は僕が暴れたせいで痣だらけだった。
ああ、そうだ。僕はよしくんの死を、受け止めきれないまま大人になった。これはその戒めなのだろう。
あの日見た赤を、忘れたかった。幼いながらも、忌々しい記憶と混ざり合ってしまった赤をもう見たくないと蓋をした。そう望んだ。そう願った。僕は赤が怖かった。それだけなのに、僕の目は青以外を映さなくなった。
次第に色彩に溢れた景色がフェードアウトする。再び目の前に現れた景色は、青だけのものに戻っていた。周囲には、悲鳴を上げる人間も、思わず言葉を失う人間もいた。野次馬のように近寄り塊になる人間も。救急車のサイレンが近づいてくる音がする。僕は呼吸を落ち着けてからその人集りの横をすり抜け、数十メートル先の会社へと向かった。ちらりと見えた乗用車の運転手が、あの頃の軽トラックのおじさんと同じ表情をしていた。あの人も僕と同じように忘れて生きていくのだろうか。それとも、背負い続けるのだろうか。どちらにせよ、あの人の選択であって、僕の与り知るところではない。
忘れてはならないことはもちろんある。けれども、忘れるべきこともある。忘れていた方が幸せなことも。僕は記憶にそっと蓋をして、これからも、今までと変わらない信用できない日々を過ごす。僕の見る世界は青いまま。それ以外の色彩の一切を排除した世界。何もかもを忘れた、空虚な青の中。