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2031年の日記

遡ること2023年、ChatGPTが世界を席巻した。あれ以降多くのコンテンツがAIによって生み出されるようになったし、仕事もAIがやってくれるようになった。
特に転機になったとされるのは、2023年の秋頃に開発が進んだソフトウェア開発特化のLLMだ。それまではノーコードという名称で画面上からソフトウェアを作る動きはあったが、特化型LLMを活用してソフトウェアの下部構造すらも自然言語で記述できるようになった。ハードウェアのセットアップからネットワークの構築、アプリケーションの実装などなど、ソフトウェアを扱える状態になるまで一気通貫で行われるのだ。ログやメトリクスの設計なども行い、人間が不具合だと認識したインプットを学習、修正までも即座に行われるようになった。特化型LLMも最初こそ人間が可読できる形で記述をするアウトプットを生成していたが、ある時点から人間が読む必要性が出てきたら、その時点で可読できる形で出力をすれば良いという発想になり、最初からLLMとしては機械語で記述していた。
結果、ソフトウェアの生成コストが圧縮され、期間も一瞬と呼べるレベルのものになっていた。

それによって引き起こされたのは、昔の表現で言うところの圧倒的なデジタルトランスフォーメーションだった。ソフトウェアエンジニアリングを理解していない者ですら、要求さえ言語に出来ていればソフトウェアを作れる時代になったのだ。いや、正確にいうと彼らはソフトウェアを作っているという感覚すらなかった。呪文を唱えれば作用する、という魔術的なものである感覚であった。(センシングできるものの場合、もはや意識の段階でソフトウェアが生成されることもある)

魔術はあらゆる場面で唱えられ、この頃にソフトウェアAIは個人もしくは集団の単位ごとにソフトウェアを生み出していった。生成コストが圧縮されたことで多くの場合、汎用的なソフトウェアである必要がなくなった。ネットワークに繋がって情報連携をとり、ある一定の汎用性はあるもの、実態としては無数のオーダーメイドなソフトウェアが生活に根ざすようなことになった。それは各個人向けの場合もあったし、家族や会社などのコミュニティ向けであることもあった。一種の文化や性質によってのみ差が生まれていたため、ユング心理学でいうところの集合的無意識的な層によってソフトウェア自体が構成されているような形だった。

そういった流れがあり、人間の生活は緩やかに変化していった。多くの人は仕事という使命を剥奪され、自らの生を謳歌しなければならなくなった。過渡期は多くの個人においてアイデンティティの喪失が起き、自殺率が短期的に上昇した。しかし、時が経つにつれ順応が始まり、晴耕雨読な生活や牧歌的なコミュニティの在り方が浸透、人は踊ることや歌うことなど身体的でプリミティブな活動に精を出すようになった。

しかし、近年大きな問題が起きている。それは、ソフトウェアのロストテクノロジー化だ。

元々、ソフトウェアは失われ続けている無形の資産だった。それがここ数年のうちに人間が学習をやめてしまったために加速、技術の継承ができなくなっているのだ。問題が明るみになったのは、1年前、大地震による物理的破壊と太陽フレアによる通信障害が重なったことによる一部ソフトウェアの機能不全だった。事故発生当時、倫理ネットワーク(集合的無意識層にアクセスをして人間的な判断を司どるネットワーク)とソフトウェア生成ネットワークへのアクセスができない状態になった。AIへの命令により、ソフトウェアの可読化には成功したものの直すのは人の判断とプログラミングが必要であった。しかし、現地にはソフトウェアを読み書きできる人間はおらず、事故の被害拡大を生んでしまった。

これに対する打ち手として、汎用コンポーネントの極限までの分散化と、バックアッププランとして凡ゆる人間がソフトウェアエンジニアリングを理解しておくことが提案された。当然、これ自体もAIによる提案である。魔術を魔術としてではなく科学として理解してもらうために、ソフトウェアの博物館や学校、研究所などが各地で建設されている。それと同時に、遊び/競技としてのソフトウェアエンジニアリングが提唱され普及し始めている。

明日は地元の博物館で開設記念ハッカソンが行われる。息子も参加するらしいので、楽しみだ。
もちろん、勝つつもりで臨むが。

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