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(駄文)結局自分が何になりたいのか考えてみる

 大学に入ってから、大学院に行きたいと思うようになった。勉強をするほど私の精神を私の側から覗いているような感覚になって、学びを深めると自分が分かるようになるのだという発見があった。私は自身を客観視するために努力をしている自負がある。そのぶん、自身の家庭環境の異常性や、他者からどのような視線を向けられるかという予想を内面化し、整合性のとれた自我を渇望するようになった。まあ簡単に言うと自分に厳しくなってしまったということです。大学入学後は学修がその傾向をより強めるように機能して、結局自身を大学院へと導いている。

 私は父を幼少期に亡くしていて、彼に関する記憶は一切ない。父は家族に溺愛されていたようで、父が亡くなった際 父の家族は彼の死の責任を私の母に擦り付けた。ので現在、父方の家族とは絶縁している。私を孫として迎え入れるのは母方の祖父母のみだが、その祖父母も非常に拘りが強い。彼らは孫を旧帝大の医学部に入れ、所有する片田舎のテナントで開業医をやらせるつもりでいたようだが、その孫が案外利かん気だったので 願望は消滅した。彼らは孫が正社員になり安定した職業に従事することで折り合いをつけたがっているが、当の孫は正社員になることすら危うい性格をしていることを、祖父も祖母もまだ知らない。

 祖父母の強烈な資格至上主義にあてられたこともあり、大学では教職課程を受講し 教師の資格取得を目指すこととした。もともと勉強を教えること自体は好きで、アルバイトとして従事してみると 案外自身にあった職業であることが分かった。そこで直面したのが、「学校」という 全体主義に迎合する右派丸出しの組織である。当の私も勿論学校とやらを卒業し、大学受験に必要な資格を揃えるに利用させていただいたわけだが、自身の過去を振り返れば振り返るほど そこに軍隊のような不条理さがあったことが思い起こされた。学校という腐った概念を変えて、将来を担う子供がもっと希望を持てるような環境をつくりたい。そうすれば、本当は過去の私が救われるのだ…

 私は「おじさん」が死ぬほど嫌いである。おじさんとは俗に40代あたりを越した男性を指すが、別にすべての「年を重ねた男性」が嫌いなのではなく、ホモソーシャルに迎合し、自身の古臭い言動に変化を一切加えようとしない 甘えた態度の腐った人間が嫌いなのである。なので実際は性別も関係がない。ここで言いたいのは、就職をすると「おじさん」との接触を如何しても避けられないということである。私は「おじさん」に媚びを売るために生を受けたわけではなく、媚びが業務の一環に存するのであれば就職はしない。ここで私の就職という退路が断たれるわけである。

 ここまで散文的に文章を連ねたわけだけれど、ここらで初めのテーマに戻る。私は少々独特な家庭環境の下で 他者と共有することの難しい思考回路を獲得し、その思考により自身の首を絞めるまでに陥っている。結局私は、ただモラトリアムを延長したいだけなのではないだろうか。

 私はただ単に、過去の私を救ってあげるために就職という道を断ち、芸術にあこがれて、社会との意見の共有を避けているだけではなかろうか。過去の自身にすがり、未来に対してまっすぐな視線を向けず、他者との間に存するギャップに苦しんでいるだけなのではなかろうか。勿論、私は社会に漂う暗黙の了解を正しいと解釈したことはないので、自身の敷いたレールに今更反発することはない。しかし、社会とのギャップというものは 私が社会に反発しながらも その内側で生活せざるを得ないことを考えると、私自身の生きづらさに甚だしく直結するのである。

 最近自身が何を目指して生きているのかが分からなくなってしまい、メンタルに多大な損傷を受けていたので 考えたことを纏めて自身を落ち着かせるに至りました。私はいつまでも子供と大人の間に存在しながら、自身を救い出すことを第一優先にしながら、その副産物がいつか世界を少しでもより良いものにすることができればと思います。背伸びをやめ、今自身ができることをこつこつと積み重ねるほかないのやもしれません。


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