見出し画像

絵描きの後輩と三月の先輩

しおり、それは本の間に挟むもの。理由は人それぞれだが、殆どの人は続があるもの、読んでいたところが分からなくならないようにと、挟むことが多いだろう。だがたまに、自分のお気に入りのページに挟み、いつもいつでも読みたくなったら読めるようにしている人もいるのだという。

さらりと体を掠める風は、体の体温をまた深く奪っていった。高校の三年。冬は皆、受験や就職で忙しそうにする。俺は短大に行くことにした。そのせいか、周りより早めに終わった冬の荒波は、物珍しい寂しさを俺に運んできた。友人の一人や二人、さっさと決まればこの時間はなくなる。そう分かっていても、どこか仲間はずれのような幼稚な寂しさは消えてはくれなかった。
「さむい」
小声のそれは、真っ白に染まった息と共に空に消えていった。高校の玄関で思わず立ち尽くした。いつもなら友人と馬鹿やって帰る道。帰りにどこに寄ろうとか、何をするとか話す場所。今は俺一人。他の奴らは皆まだ教室にいる。俺がいたところで邪魔にしかならないと、チャイムの音と一緒に出てきてしまった。下駄箱は、後輩の下校で賑わっている。そんなところに入り込む勇気もない。でも動かないとそれもそれで邪魔なのだ。
 ぱっと顔を上げ、玄関とは反対の階段を見上げた。

西棟

俺ら三年が主に使うのは、東棟で一年と二年の半分が使うのが西棟だ。そことここを分けているのは階段で、靴箱だけ合同のこの学校は、下校や登校時、イベント時など意識しない限り、些細な時にしか後輩と会うことはない。別に何か知り合いがいると言うこともなかったが、このまま寂しく一人で帰るよりはましかと俺は階段に足を向けた。
 人の減った廊下や教室からはパラパラとしか話し声しか聞こえてこない。おかげで三年の俺がいても気にかけるやつなんていなかった。懐かしいなと思いながら廊下を歩く。廊下は俺の掃いているスリッパの音だけが響いていた。二年の半数や空き教室、室内の部室がある西棟の三階に足を運んだ。
 冬と言うこともあってか、まだ人のいた二階とは違い、中々に薄暗い廊下がそこには広がっていた。奥の部屋から光が漏れていることに気づいた俺は、まるで蜜に誘われる蜂のようにそこへ向かった。

美術室

 看板にそう記されていた。からりと音を立てて扉を開く。むわりと形容しがたい匂いが鼻についた。ガソリンのような、ネイルの除光液のようなその匂いに思わず嘔吐く。窓は完全に閉じられ、教室の奥には何か見たことない画材が置いてあった。
「何だあれ。」
壁に掛けられて無造作に置かれているキャンバスは、遠くからでも何か絵が描かれているように見えた。教室に鼻をつまんで入る。教室の扉に1番近い机に鞄やリュックを置き、暖房もつけられていないこの部屋をマフラーだけして歩く。絵に近づき、しゃがみ込む。何の絵か分からなかった。
何を書きたいのか、何を描いているのか。俺が素人で絵がなんたるか分からないからかと思った。
 スッと手を伸ばし画面に触れかけ手を止めた。塗り立てのように見えたからだ。もう帰ろう。そう思いつつも、それでも何故か、その絵の前から俺は離れることが出来ないでいた。

ガラっ

そのとき、勢いよく教室の扉が開いた。
「え、」
誰かが来るなんて想像できたはずなのに、思ってもいなかったことに思わず体が揺れた。
「え、誰。」
ぼさっとした黒髪に口元まで隠すように巻いたマフラー、手に持ったコンビニの袋が不安そうに揺れていた。
「あ、、ご、ごめん。勝手に。」
少し開いた目を元に戻して、
「いや、別に。」
と言いながら彼は教室に入ってきた。チラリと、机に置いていた俺の荷物を横目に俺から少し離れた場所の机に袋を置く。
ドサリと音を立てたそれは思っているより中身が入っているらしかった。どう考えても、もう俺はここから出て行くべきなのだが、何故かまだこの訳の分からない絵を見ていたくて仕方なかった。彼が書いたのだろうか。なら何を書いているのか聞いてもいいのだろうか。いや、初対面がそんな慣れ慣れしくしていいものなのか。そんなことを考えながら絵に目を戻した。
「え、三年せい?」
頭上から間の抜けた声が聞こえてきた。顔を上げると、少しばかり戸惑った顔の彼と目が合った。
「ん?うん。」
肯定の返事にさらに困惑した顔を見せた。
「さ、三年って東棟じゃないですっけ。」
取り繕ったかのような、わざとらしい敬語だった。
「ええと、暇でさ。」
訳が分からないと言いたげな顔だった。そりゃそうだ。今は受験期だし、こんな時期に暇なんて言う高校三年生はめったにいない。
「ああ、俺短大に行くんだ。それで、受験とか早く終わってさ。ありがたいことに合格しててさ。」
と言い訳のような事実を言う。へらっと笑った俺にまだ何か言いたげではあったものの。もう興味が失せたのか、彼は袋の中を物色しはじめた。俺はさすがに絵に目を移す気にはなれず、かといって彼を見ているのも変だと思い視線をうろうろとさせていた。
帰る気になれないのは、時間をあまり潰せていないからなのか。まだ惜しいと思っているからなのかは、分からなかった。
 ガサリと紙が破かれる音と共に、ガソリンの匂いに混ざってチキンの香りがしてきた。
「ん。あげます。」
「え、」
わざと点線ではなく真ん中から切ったと思われるそれは、どう考えても差し出されている方が大きくて。

「え、いやいや、大丈夫だよ。ごめんね。勝手にいるだけだから、気にしないで。」
きっとそれが一番気にする要因なのは、なんとなく分かっていたが、彼は二三回瞬きをした後。
「嫌いでした?」
と言ってきた。
「いや、嫌いではないけど。そういうことじゃ」
ない。と言いかけて
「じゃあ、いいじゃないですか。」
とパクリと自分の持つ方のチキンに口をつけた。ここまでされて貰わないのは、かってに絵まで見といて失礼だ。かといって、小さい方をねだるにも彼はまるで見透かしていたかのように自分のほうのチキンにもう口をつけてしまっていた。
「あ、ありがとう。」
貰ったチキンを手にどうしようか悩んでいた時。
「それ気に入りました?」
と聞かれた。
「え?」
と聞き返すと、口に入れたチキンをそのままに、ん。と顎で絵を指される。
「あ、いや。そういうのじゃなくて。」
そう答えると、ふーんと興味なさげに返される。
「俺は、気に入ってんですよ。」
まあ、途中なんでまだなんともってとこは、とこなんですけど。と続いた。俺も、多分気に入っている。でも何故か素直にそういうのは、いえなかった。
「ああ、やっぱりお前が描いたんだ。」
それより、彼がこの絵を描いたという事実がそのときは、無性に嬉しかった。

[そ。俺、絵うまいでしょ。」
にかりと笑った。そして突然、笑った顔のまま言った。
「俺、疲れてきてるんです。生きること」
「は?」
一瞬何を言っているのか分からなかった。が、分かった時何が言いたいのかも理解した。
「死にたいのか?」
すると、チキンを食べながら
「嫌、そこまでじゃないですけど。」
と、彼は食べ終わったのだろう紙をグシャリと丸め、絵の前にあぐらをかいた。
 俺は少し彼が座りやすい様に、横にずれる。マフラーをつけたまま彼は、筆をとり続きを描き始めた。
「死にたいのかも知れませんけど。」
徐々に彼の敬語に慣れてくる。
訳が分からない。
「どっちだよ。」
彼の作品を見ながら、彼に問いかける。
「そういう微妙な感覚ってありません?」
問われても分からなかった。死にたいとか、消えたいとか考えたことも無かった人生だ。
「わかんねえ。」
そんなに感情が揺れ動くから、この絵が描けるのかと思った。
「死にたくなると、描くんです。」
彼は、ガソリンのオイルの様な匂いのする壺に、筆先を軽くつけ、どこにあったのかパレット内で絵の具を軽く溶かしつつ言う。

 そんな空間で、ふと無言にお互いがなり筆の音が聞こえた。
「ガソリンの臭い。」
ぽつりと言えば、

「油絵っすからね」
首をこちらに軽くあげ、言う。
「まだ、居ても良い?」
なんとなく、許可がいる気がした。ふはっと笑って、後輩は後ろの椅子を指す。
「あれ、使ってください。」
どうやら、いても良い許可が下りたらしい。誰もいない空間でかきたいのかと思っていた俺は、少しだけ拍子抜けした。
「見てても良いか?」
「まあ。」
顔を絵に戻し、筆を動かす。
「暖房つけて良いですよ。」
寒いでしょう。といわれ後輩に気を遣われていることが分かった。
「寒い中で描きたいとか、、。」
「ないない、面倒なだけっす。」
そう言われて、遠慮無くエアコンをつけマフラーを外すと、後輩もマフラーと上着を後ろに置いていた。
「いい、絵だな。」
ぼそりと、なんだか恥ずかしくなった。後輩は、ぽかんとして
「さっきは、なんともないって。」
「なんか、感想言うのハズくって。」
というと、少し嬉しそうに
「ありがとうございます。」
と言った。なんだか、こんな風に笑った顔は初めて見たから、よく分からないがその顔は、作品によく雰囲気が似ている気がした。

 それから、下校時間になるまで俺は後輩の絵を描く後ろ姿を見ていた。何も話さず、お互いの息遣いと筆の音だけの数十分。
 チャイムが鳴り、帰宅を促す放送が流れてようやく俺は我に返った。
「帰らないのか?」
「帰りますよ。」
俺にはよく分からない、後処理の時間があってから後輩は背伸びをして立ち上がった。
俺の目に、少しだけ進んだ絵が見える。
「烏か。」
「そうです。好きなんで。」
後ろに置いたマフラーとジャケットを羽織り、俺に向かい合う。
「帰らないんですか?」
そう聞き返されて、はっとなり自分のマフラーやジャケットに手を通した。後輩は待ってくれていたのか、学生鞄と鍵を持って俺を見ていた。
「何の鍵?」
「ここの。借りてるんです。先生に許可とって。」
なるほどなと、うなずきながら美術部は確かに内の学校では無かった事を思い出す。
 それから、後輩の後に続き教室を出て、後輩が鍵を閉める後ろ姿を見つめた。
 そんで、一緒に職員室にかえしに行く。そんな事を二月頭までやっていた。

 だが、終わりもするりと訪れた。二月にもなってくると、友人らも受験が終わり手が空く奴らも出てくる。俺は、後輩の絵の完成を見ること無く友人と遊びほうけるようになった。
 そして、そんな中卒業式を迎える三月。

後輩は、飛んだ。

 聞いたときは、冗談だと思ったが周りの慌ただしさから、冗談では無いのだと分かった。卒業式は、そんな事知らない様な顔で行われ、後輩のことは腫れ物の様に触れないように扱われた。
 そして俺は、卒業式の日に美術室に向かった。後輩との唯一のつながりがあって、数度話しては無言の時間が流れたあの教室。
 鍵を先生に借り、借りるときも後輩の使っていた事を知らない先生に借りた。知ってる人は、貸してくれなかっただろうから。
 そして、一時だけ俺の定位置になっていた荷物置き場に、荷物を置いて。
 あのときずっと座っていた椅子では無く作品の前のほうに歩いて行く。ソレは、そこにあった。
 「烏」
完成しているのか、未完成なのかは俺には分からなかったが、そこに後輩はいた。
そう思った。あの頃から、数回だけ見たことのある微笑みの雰囲気によく似た烏。
「突然来て、ごめんな。」
来なくなったことじゃなく、はじめのように来てしまったことをわびてしまった。
 ただ、その言葉を皮切りに何故か涙が止まらなくなった。
「書き終わったのに、しんだんかよ。」
前、後輩が死にたくなると描くと言っていた。なら、この絵は未完成なのかも知れない。もしくは、書き終わっても衝動が止まらなかったのかも知れない。
 ボタボタと泣きながら、俺はとうに乾いたその烏を手に取った。
「貰って良いか?」
誰もいない教室にささやく。
 いいですよ。別に。
絵に、烏に言われている気がした。その後、大学に行き、社会人となり、会社に勤めて。そんな普遍的な人生の中、何時もふと後輩のほほ笑みを思い出す。そんな時は、ずっと俺と一緒にいる烏に問いかける。

「うまく飛べたか?」と。

いいなと思ったら応援しよう!