4 夜のピクニック
今回は名作を紹介します。
恐らく本好きの方にこの本を知らない人は居ない、というくらいの名作です(だと思っています)。
私は中学生か高校生の頃、お父さんに勧められて初めてこの本を読み、そこから約10年が経った今、スウェーデンという国でこの本に再会することになったので、何の躊躇いもなく本を手に取り読み始めました。
この本は、高校の全校生徒が一斉に夜を徹して80キロを歩き通すというイベント「歩行祭」での物語が描かれています。
80キロという距離の長さが既に物語っていますが、この一冊の中で登場人物たちはとにかく歩き続けます。本当にただただ歩きます。
しかし、ただ歩き続けるだけなのに、卒業を控える登場人物たちの心が変化してきたり、成長したり、いわば青春が描かれていきます。
初めてこの本を読んだとき、自分は何を感じたのだろう?と思いながら本を読み進めていたのですが、案の定思い出せる訳もなく、今の自分は何を感じるのだろう?と耳を傾けながら読み進めました。
今回はこの本をきっかけに、私の青春時代を振り返りたいと思いますので、本の内容が知りたい方は是非ご自身でお読み下さい。
「自分の青春って何だったんだろう」
この本を読んだときはもちろん、常に私の心にはこの問いが引っ掛かっていました。
毎日が楽しかった(中学も含め)高校時代。当時の自分はこの瞬間が永遠で尊いものであると感じていたのに、そこから10年経った今、鮮明に思い出すことが難しくなる青春の思い出たち。
そんな青春を振り返ろうとしたときに感じるのは、いわゆる「高校生らしい青春」はきっとしていなかったんだろうな、ということ。
高校という空間は、大学、もしくは社会人になる一つ前の守られた空間であり、まだ子どもであることを許されるような環境です。そんな高校という空間に身を置くと同時に私はトップチームへ昇格し、30歳前後のベテランの選手たちと時間を過ごすこと、すなわち子どもであることは求められない‘大人’の世界にを身を置くことになります。
そうなると、サッカー選手としても一人の人間としても、自分がいかに子どもであるかを強烈に感じることになり、‘大人’の世界で‘子ども’の自分が足を引っ張らないための方法を模索し始めます。
そんな模索をしている自分が高校の部活動に所属せず、文化祭などの大きなイベントに参加をしないとなると、自分はこの高校という空間に馴染めていないのではという思いを持つようになります。
まだ子どもでいたい、周りの友達のような高校生らしいことをしたいという欲望と、欲望が求められないシビアな世界での要求の狭間でぐちゃぐちゃになっていました。
恐らく、まだ子どもでいたい自分、みんなと同じような生活をしたい自分と、自分が目指す頑張りたい世界に行くためにはそんな欲望に甘えていてはいけないと思う自分を、可能な限り行き来しようとしていたんだと思います。
けれど、学校の友達たちの「遊ぼう!」という会話の‘遊ぶ’ってどういうことなのかがイマイチ理解できず、それが気になってしょうがないのにオフの日は疲れ切っていて、気付いたら一瞬で時間が過ぎてしまう、オフが終わってしまうという日々を過ごしていたので、どんどん自分が理想とする‘青春’からは遠ざかっていました。
こういう風に書くとなんだか辛く、楽しくなさそうな青春時代に聞こえてくるのですが、先述したとおり、毎日楽しかったです。本当に楽しかったし、さらに言うと面白かったです。
私が高校を選んだ理由は、「制服がない」「家から近い&駅に近い(練習に早く行きたいから)」の2つだけです。ちなみに、中学校を選ぶときも同じ基準で選びました。
自分の中学の成績がどうとか、偏差値がどうとかは全く考えず、「ある程度どの高校行っても勉強する内容は同じでしょ」という謎な思い込みがあったので、その2つの理由だけで自分の行きたい高校を選びました。
「制服がない」と書きましたが「制服は着なければいけないときだけ着れば良い」という緩い決まりがあり、始業式とか終業式とかで着れば良いよ(私はそれでも着なかった)という制服、セーラー服がありました。
そうなんです。この私がセーラー服を着ていたんです。まあ、3年間で10回も着ていないので、卒業後に寄付をしに行ったときに「こんなに綺麗な制服は初めて見たよ!」と褒められた(?)ことを覚えています。
そんな緩いルールなので、私服の子が多かったり、学校の制服ではないけれど‘なんちゃって制服’というものを着ている子が多かったり、(部活で縛りがあった子もいたけれど)自分の着たい服を着ている子がほとんどでした。
髪も染めて良ければ、ピアスも開けて良いし、化粧もしていいので、自分がなりたい姿になれることが認められている高校でした。
そうやって自分のなりたい姿になっているキラキラした子たちがたくさんいると、すごく華やかなんですよね。運動会でクラスカラーに頭を染めたりして見た目としても華やかだったし、内面も華やかな感じがしました。
それが同級生ながら良いな〜と思って見ていたし、そういう子たちがいわゆる’青春’を過ごしているんだと思うと、自分の’青春’とギャップがあるように思えて羨ましく見ていました。
で、再び「自分の青春は何だったのか」という問いに戻ってくるのですが、「自分らしく居て良いんだよということを同級生に教えてもらったこと」が私の青春だなと思います。
大人になってから「自分らしさ」が求められることや語られることが増えるのに、「いや、自分らしさなんて知る方法も受け入れられてきた経験もないわ」と過去を振り返る方も多いのではないでしょうか?
実は、とても自由で活き活きとした母校も、私が高校3年生の時に着任した校長先生の方針で「翌年から入学する新入生から制服は毎日着用」「髪を染めることやピアスなどの装飾品も禁止」という真逆な校風に変わることになりました。
これは恐らく私たちの世代が色々やらかした(笑)という背景も少なからずあると思うのですが、この校長先生の決定に対し、生徒会が動いて全校生徒で反対運動を起こすという事態にまで発展をしました。
高校生ながら「自分らしさが認められる空間」を守ろうとしていたんですよね。もちろん、こんな言語化は当時できていたわけではないけれど、「自分らしさ」が奪われることに強い嫌悪感を持っていたことを、今でも鮮明に覚えています。
私は他の学生と違って、学校には在席しているけれど学校の活動にはほとんど参加をしないし、なんか分からないけど(アジア大会とW杯)一ヶ月学校を休んだりするし、修学旅行も行っていないので、どうしても自分から疎外感を勝手に感じてしまうこともあったのですが、周りの友達が「それがもみきらしさじゃん!カッコいいじゃん!」みたいに、良い意味で軽い感じで認めてもらっている気がしました。
そんな友達たちが休んでいる期間のノートを取ってくれたり、勉強を教えてくれたり、修学旅行先からメッセージを送ってくれたりして、そういう友達に囲まれたことが凄く嬉しかったです。
毎週の試合の結果をチェックしてくれていて、違うクラスになっても廊下や下駄箱で会ったときには「試合勝ってたね!」「点取ってたね!」と声を掛けてくれる友達にも恵まれました。
これが自分の青春だと思うと、自分が考えていた‘青春’ではないし、未だにいわゆる‘青春’に憧れを持っているけれど、個性的で面白い‘青春’を過ごしたんだなと、ここにも自分らしさを感じました。
そんな自分の青春時代にタイムスリップができる小説です。
皆さんも是非!
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