[S.A.A.]ビッグスワンでコレオ!その1@アルビレックス新潟
この稿は前稿からの続きとなる。
記念すべき!ビッグスワン初コレオ!
さて、新潟スタジアム(ビッグスワン)での初めてのコレオを、関係者以外でいったいどれくらいの人が覚えているだろうか。もしかしたら当日その場にいても気づがなかった人もいたかも(そんなことはない、と言って欲しいw)。
時は2001/05/19、新潟スタジアムにおけるアルビレックス新潟の初ゲーム、J2京都パープルサンガ戦。実はスタジアムのこけら落としイベントとしてはこれより前、2001/04/29に新潟県21世紀記念事業「新潟2001年宇宙の旅」が行われているので、正確に言えばスタジアムの「こけら落とし」ではないのがちょっと残念ではある。
この日を前に、こんな動きがあった。
ビッグスワンで初めて迎える試合。ヨーロッパのスタジアムみたいな雰囲気で選手を迎えたい!やってみたい!
一つは紙吹雪。
もう一つはコレオグラフィ。
紙吹雪のほうは、伝説のサポーター、Oちゃん(これは伏字?)が主導して準備していた。コレオのほうは、スタオレ(スタジアムオレンジ作戦実行委員会)メンバーを中心にコレオペーパー(ビッグフラッグへの募金を呼びかけるフライヤー兼用)を用意するなどの準備が進んでいたらしい。
そして、当日のコレオと紙吹雪がこれ!
笑。
というか、これはコレオだったのか?まあコレオだろう。コレオでないとは言い切れない。限りなくコレオ。コレオと言っても過言ではない。いやあれはきっとコレオだったはず。
目を細めて見れば、なんとか「NIIGATA」の文字が浮かぶよ!
みなさんお気づきだろうと思うが「NIIGATA」の文字は、もともとスタジアム2階に色違いの椅子が配置されているので、それをそのままデザインとして利用している(ヘッダ画像参照)。
なにせ初めてのコレオだったので、当日のオペレーションは相当に大変だったらしい。
この日の入場者は31,964人。この数字はそれまで市陸に入っていた人数の10倍近くにもなるのだけれど、それでも42,000人入るビックスワンではバックスタンド2階を埋めるにはちと足りない。
最後の「A」の文字部分が白軍団で占拠されているのは、おそろいの白いジャンパーを着たNSGの学生さんの、いわゆる「学徒動員」組(当時そう揶揄されていた。ごめんなさいw)。何とか頼み込んで、この人たちに2階に上がってもらったそうだ。席が埋まったのはいいけれど、ペーパーをしっかり上げるところまでは徹底できなかった感じかな?
惜しい!惜しい!
まあ、実行メンバーが知り合いなので辛口めに書いてるけど(許して)、右往左往しながらもみんなよく頑張りました。遅くまで後片付けに協力いただいたみなさんもお疲れ様!きっと選手たちもワクワクしてくれたはず!
後日、ちょっと別件があって自分のブログに書いたことを引用しておく。
2度目のコレオはJ1初コレオ!
最初のコレオから3年。そのチャンスは巡ってきた。
J1に昇格して最初のシーズン2004年、10/17のホーム鹿島アントラーズ戦。「亀田製菓サンクスデー」ということで、スポンサーである亀田製菓が来場者に向けてオレンジ色のシートを配布してくださることが分かった!
まずは半年前、同様にオレンジペーパーが配られた2004/04/10の亀田製菓サンクスデーの様子を見てほしい。
みよ、この41,192人の観客でオレンジに染まったスタジアムを!まるでピーナッツのない「柿の種」のようではないか!
このベースがあったからこそ、反町康治元監督をして「満員でオレンジ色だから、きれいに出るんだよ」(「10年目のPRIDE OF NIIGATA-アルビレックス新潟2004-2013」サッカーマガジンMOOKより)と言わしめた〇〇〇〇コレオが成功したのだよ。
さて、当日。この日の入場者は41,955人とほぼ満員。
実はわれらがアルビレックス新潟は、この試合まで3連勝して、J1リーグ2ndステージ3位に順位を上げていた。ここで鹿島に勝って4連勝しよう!ということで、3白丸(3連勝)→4つ目の白丸(4連勝)を出すという「ムービングコレオ」を行うことになったとか。
準備の経緯はよくは知らないが、デザインの原案はナウロさん(カリスマプロデューサー)だったように記憶している。いつも面白いことを考える人だなー(笑)
また、この日はビッグフラッグ掲揚をお休みしてのコレオなので、たぶん、ビッグフラッグ運営メンバーもコレオに絡んでいたものだと思う。いつもありがとうございます!
画質の悪い写真しかなくて申し訳ないのだが、3年前のコレオと大きく違うところを4点挙げたい。
まずベースとなる観客数。この日はほぼ満員で、しかもバックスタンドのほとんどの人がオレンジを身に付けているため、それだけでも美しい。
さらにスポンサーである亀田製菓様が当日準備してくだったオレンジペーパー。こちらがその現物だ!(やさいさんのXのポストをお借りした。)
当日の試合のBSでの録画を久しぶりに見てみたら、光沢のあるペーパーが日差しを受けてキラキラ輝いて、本当にきれいだった。もちろんアウェイチーム席以外は、全部このオレンジ状態。
次に、文字。3年前と同じようにスタジアム座席の「NIIGATA」の文字をそのまま利用しているのだけれど、よーく見ると前回と違い、座席のない通路部分にもブルーのボードを配置して「G」の文字が途中で途切れないように工夫されている。すごい進歩!
四つめが「○」。単純な形とは言え、図案を座席にプロットしてボードを配置したのはアルビレックス史上これが最初、ということで間違いないだろう。
これがJ1に昇格してからの、初めてのコレオ!
そして、ここからさらなる進歩を遂げていくことを私たちは知っている。
ふと、ここで考える
ここまでのコレオって、バックスタンドばっかりじゃん?
なんでゴール裏じゃねえの?
普通、いや何が普通かは知らんけれども、コレオと言えばゴール裏でやるもの。そんなイメージがあるのではないかと思って。
これはあくまで私個人の考えなのだが、ものすごくぶっちゃけて言ってしまうと、アルビレックスがバックスタンドでコレオをやったのは「バックスタンドでコレオがやれたから」。禅問答w
バックスタンドでコレオをやれば、入場してくる選手たちの眼に真っ先に映るし、もちろんテレビ映りもよい。でもこれをやるには当然条件がある。少なくともコレオを行う範囲を、ホームチームの観客で埋めなければならない(そうしないと、いつぞやの川崎みたいなことになる)。
2004シーズンのアルビレックスは、その条件を十分満たしていた。
バックスタンドでコレオを行えるだけの集客に加えて、オペレーション人材も揃っていた。ゴール裏のコアなサポーターがバックスタンドに出張してきてコレオをお願いする、とかそういうのではない。準備段階からいろんなサポーターが参加していたし、ビッグフラッグの掲揚をはじめとしてバックスタンドのお客様に様々な協力をお願いすることに慣れた人たちが存在した。
そしてこれは住み分けというのかな?
ゴール裏のコアなサポーターは、"Can’t Help Falling in Love"を歌いながら、自分たちがクラブや選手のために用意したゲートフラッグ、あるいはタオルマフラーを高く掲げて入場してくる選手を迎える。それがとても美しいのだ。ゴール裏でコレオをするより、そのほうがよっぽどステキだったのだ。
私はメインスタンドの民だったので、自身もタオルマフラーを掲げながら、いつもそのゴール裏の様子を感動して眺めていた。ゴール裏とバックスタンドのコラボ、全方向のオレンジ。4万人のサポーターと言われたこの時期の、美しい光景!
話は少し横道に外れるかもしれないが、先日2024/12/15に開催された「アルビレックス新潟サポーターカンファレンス」の事前アンケートの中に、「ビッグフラッグはバックスタンドに掲載(原文ママ)されますが、他チーム同様ゴール裏で掲載したほうが良いと思います。」という意見があったことを、ある意味懐かしく見た。
あのね、もったいないですよ。
せっかくのゴール裏の美しい光景を、フラッグで覆ってしまうのは。
選手たちを鼓舞する声の上に、フラッグをかぶせてしまうのは。
と、私は思う。
実のところ、20数年前にもジジイさん(子泣きジジイ赤星氏)とそういう話をしている。
(10年も前に新潟を離れ、J2降格もコロナ禍も経験していない私が言うことなので、はなはだ的外れな考えなのかもしれないが。)
ゴール裏から選手に向けて何か特別の「強いメッセージを伝えたい」、あるいは何らかの企画(悪だくみ)をもって乗り込んでくるアウェイチームに向けて威圧感を与えたい、そんな時にはゴール裏が発揮するとき!
次の稿では、そんなゴール裏からのコレオを振り返ってみたいと思う。続く。
余話
このコレオの6日後、2004/10/23の夕方、新潟県中越地震が発生した。
新幹線が脱線し高速道路は通行止め。翌日にアウェイのジュビロ磐田戦を控え、地震被害の詳細が分からないまま深夜にヤマハスタジアムに向けて自走で出発した友人たちもいた。
夜が明けてからだんだんと、通信の途絶していた地域からの情報が入り始め、その被害の甚大さが明らかになる。
新潟スタジアムの広大な駐車場は自衛隊の支援物資基地となり、連日ヘリが上空を行き来することになった。大きな余震も続き、次に予定されていたホームゲーム柏レイソル戦は、国立競技場をアルビレックス新潟のホームとして平日に開催されることとなり、新潟から駆けつけられないサポーターのためにと、各地の他チームサポーターが応援に駆けつけてくれたことは忘れがたい。
4連勝コレオのあと、アルビレックスが勝てなくなってしまったのは、この地震があったからだと思っている。落ち着いて練習もできずホームゲームも奪われてしまった。反町元監督も「もし地震がなかったらって今でも時々、考える」と上述の雑誌インタビューで語っている。
そんな、ちょっぴり悲しい記憶も、このコレオとともにある。