鴻が死んだ

鴻英良が死んでしまった。あれだけ死ぬ死ぬ言っていた、しかも最後まで子どものようだった鴻英良に死なれても、彼が死んだということがどういうことなのか、とてもよくわからない。あるときは師であり、あるときは同志であり、あるときは友人であり。おそらく多くの人にとってもそうだったのだろう。きわめつきは、あの笑顔と、あの声で。
出会ったのは忘れもしない、フェスティバル/トーキョーの2011年だったから、まだたった13年しか経っていないらしい。あのときは公募プログラムの審査員で、空気を読めず野暮ったい野外演劇をひっさげて参加したピーチャム・カンパニーは、まあたいした評価ではなかったのだけれど、そのとき唯一(でないという事後的な説もあるが、まあ唯一のはず)圧倒的にプッシュしてくれたのが、鴻だった。審査の終わった後に池袋でそのまま飲んだのが、彼との最初の盃だった。
出会っていきなり、彼の政治演劇的な思想の方向に大いにかぶれた。最初の数年は、彼のいるとこいるとこ、とにかく追っかけまわした。早稲田のあかね、早稲田の授業、塩田さん主催の鴻研究会、ゴールデン街、早稲田のドラマトゥルク養成プログラム、解体社の演劇、etc。フェスティバル/トーキョーは翌年も公募プログラムに参加したが、ピーチャム・カンパニーはそれをきっかけに、潰れた。ある意味、彼の思想にかぶれて先鋭化した自分のせいでもあった。この頃、彼の研究会でマルクス、ニーチェ、仏ポストモダンあたりの発表をしたはずで、そうして揉まれながら、自分は遅ればせの知的自己形成をしていった。例の、彼の持ちネタのあれこれに最初に出会ったのもこのときだ。あれ以来、何度、じゃがいもやら石ころやらをベケットが投げてきたか、数えきれない...と、こう書いて、そういえばと、当時の彼の授業のときのノートをひっくり返す(あの頃はちゃんとノートつけてたのか)。ああ、例のギリシア悲劇とギリシア喜劇をめぐる話。例のベンヤミンの鞄の話。例の野田秀樹と七三一の話。例の医師チェーホフの話。そしてやっぱり、ベケットも。彼のこのへんのレパートリーがひととおり見渡せるようになったのは、もうしばらく、彼のまわりに通い詰めた後のことだ。
ピーチャム・カンパニーが壊れたのと図らずも軌を一にして、2014年、自分はひょんな流れで劇団解体社に入った。解体社と鴻英良こそ、まさに盟友という言葉がぴったりの関係だった。自分はまだ生まれるか生まれないかの頃、鴻がまだロシア文学の若者だった頃からの。当時の話は、解体社の清水・日野からも、鴻からも、酒の席で幾度となく聞いた。当時の写真を見ると(いやもっとずっと後までだけど)、まだ、あの髭はない。むしろ髭のあるようになってからの方が、どんどん可愛らしい風貌になってきているのだから、不思議なもので。それはともかく、自分もそういう解体社の一員になったので、こちらも盟友関係の一端を受け持つことになる。それで、自然(?)、彼への呼びかけも「鴻さん」から、じかに「鴻」、に変わる。鴻、彼とのこの頃の付き合いは、水平的なものに、というより、左内坂スタジオでの果てしのない酒の海に溺れてゆく。まあ、彼も自分もみんなも、よくもあれだけ飲みに飲んだもんだ。打ち上げは、平気で24時間以上続いた。酒、議論、酒、睡眠、起きたらまた酒と議論、てなペースで。なぜか宴の終盤(翌日の夕方くらい?)玄関にパンツがぺろっと落ちてて、それが鴻のだったなんてこともあって、みんなで大笑いしたものだ(消え去らないように、こういうこともちゃんと証言しておかないと)。こうして、飲んでは、歌って、踊って、叫んでた。
しかし、鴻、解体社の演劇(というよりもあらゆる現代の演劇?)は、だんだんどう見てよいものかわからなくもなっていたようだった。彼のベケットは最後まで抵抗の石投げをやめなかったし、こちらはこちらで反ユダヤ主義の大立者、レジスタンスの標的No.1たるセリーヌに向かっていたのだから、噛み合ってかないのもそりゃ無理もない。しかし、同時に彼はわかりたがってもいて、『人体言語プロジェクト』では企画ボードとして関わってもらって、さんざん語り合いもしたのだけれど。でも、もう、やがて酒は飲めなくなっていた。
解体社が二年前、八王子に引っ越してからは、計三度、ここに彼を迎えたことになる。彼の住む武蔵境にはさらに近くなったので、継続的に何か喋ってもらう催しでも、などと話してたところだった。髭に加えて髪まで伸びてったのもこの最近のことだ。
次回の三月の公演の客席、そして宴席に、鴻がいないというのがまだ信じがたい。いま脳裏をよぎるのは、ある日のゴールデン街からの朝方の帰り道、若輩ながら飲み疲れたこちらを尻目に、ピョコピョコ跳ねながら小柄な体を揺らして、先へ先へと駆けていくあの背中。あの背中を脳内で反復しながら、遠くへ去ってく鴻を見送る。

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