”一生に一度のワープ" を使う主人公たち 新海誠監督
※『すずめの戸締り』を含む新海監督過去作のネタバレ要素を含みます
“今からお前に何話そうかな、どうやってこの感じ伝えようかな 少し長くかかるかもな でもね 頑張ってみるよ”
2007年 春 地方の映画館で『秒速5センチメートル』を観た時のことを私は忘れない。
自分の記憶とリンクしたのか、ただラストシーンに驚いただけなのかわからなかったが、動悸がして席から立ち上がれなかった。きっと、初めての恋人と別れた直後に観たからだろう。
私は何を観たのだろう。帰り道、反芻してもなかなか消化できなかったが、当時の私は「いつまでも恋愛を引きずると、こんな大変なことになっちゃうよ」というメッセージを含んだ映画なのだと解釈した。そう感じ取った時、この映画は優しいなと思った。
(2024年現在の私は歳を幾分かとり、「あそこで明里が振り向いてしまったら、それまでの彼らの人生を否定することになるから、振り向かせなかった」と解釈している。この映画を観ると、「あなたのこれまで過ごした時間には意味があるよ」と背中を押してもらう気分になる)
その後、挨拶周りをしていた監督が語る作品作りの眼差しに信頼を置くようになった。それ以来、私は新海監督の映画はできる限り劇場で初日初回に観てきた。2011年を除いて。誰よりも先に作品を観ること。良さを語ること。そういう微力ながらの応援が、力になっているはずだと私は思っていた。
それゆえに、初めて『君の名は。』を観た時の当惑も大きかった。事前に監督がアナウンスしていたものの、その物語が大衆に向けられたポップさに理解が追いついていなかったからだ。
この作品は私たちだけではない、どこか遠くにいる人にまで届くように作られたのだ、と感じた。
オープニング時点ですでに困惑していた私が映画全体を俯瞰できるわけもなく、私は何度も劇場に足を運ぶことになった。
次第に、興行収入が報道され始めるようになると、それを伸ばそうというモチベーションも生まれ、劇場に通うようになり、その年だけで16回足を運んでいた。10代の恋愛に夢中になれるほど、20代の私は若くはなかったけれど、2011年3月11日を経験した私には別の感動があった。
それは「災害を語っても良いんだ」という気づきだった。
被災をしたものの、大きな喪失に立ち会うことのなかった私にとっては、いつの間にか、災害は語り得ないものになっていた。
この作品が世間に広く受け入れられていく過程で、ようやく、私もあの日を語るタイミングをもらった気がした。その意味で、私は感動していた。
最新作の『すずめの戸締り』は、現実と地続きのファンタジーであり、エンターテイメントである。
鈴が自身のインナーチャイルドを抱きしめる円環の構造は、“喪失を抱えて、なお生きろ”[1]というメッセージを発していた2011年の『星を追う子ども』を語り直したとも言えると思う。
“死ぬのが怖くないのか?”[2]という問いに対して
作中通して、その問いに覚悟が決まっているように見えてきた鈴芽は、草太が常世に行ったことで初めてそのどうしようもない距離と向き合わざるを得なくなる。
ここで、新海監督の作品のテーマの一つである『距離』という手垢がついた話題に、触れてみたい。
新海誠監督の作品は、監督がご自身で語るように「距離」というテーマが設けられてきた。
『彼女と彼女の猫』では、猫と人間
『ほしのこえ』では、宇宙と地上
『雲のむこう約束の場所』では、夢と現実
『秒速5センチメートル』では、
a chain of short stories about their distanceという英題通りの「距離」
『星を追う子ども』では、地上と地下(生と死)
『言の葉の庭』では、年齢、立場
『君の名は。』以降では、その距離はあまりにも遠くなった。
例えば、それは、隠り世、彼岸、常世との行き来という生死を超越するところまで。
主人公たちは、それぞれの距離を、人生でたった一度使えるワープで乗り越えている。ときに、それは”神様もきっとびっくり”[3]の方法で。
『君の名は。』以前の作品においても、距離を飛び越えた主人公たちを描かれてきたが、距離を飛び越えた先の物語に、ハッピーエンド(に見える物語)が待っているというポップさも、より多くの遠くの距離まで作品を届けようとしている証拠かもしれない。
自分たちの距離がどれだけ離れていても”たかが隣の星だろ?”[4]とポジティブな選択をとり行動する主人公たちには、距離を飛び越える力が備わっていく。
主人公の頑張りを後押しする現象が起きていく奇跡のような都合の良さに辟易する人いるかもしれない。
それでも、“奇跡は起こるもんじゃなくて起こすものだと手当たり次第ボタンがあれば連打”[5]するような主人公の努力に涙する人もいるはずだ。
監督は今の10代に向けた作品作りをしていると公言してきた。だからこそ、私は後者のポジティブさを受け止めていきたい。
鈴芽と草太は、これまでの死との「距離」を見つめ直し、
“死ぬのが怖い”[6]と感じ、“もっと生きたい”[7]と願うようになる。
この成長だって、たった数日の物語では起き得ない一種のワープみたいなものだ。
こうしたワープを新海監督自身にも感じる。監督がほとんどを一人で制作した『ほしのこえ』(2002)ではミカコがワープを繰り返し、地球にいるノボルとの距離は光年という単位にまで広がっていく。
監督の活躍を見るにつけ、遥か遠くに行ったミカコを思うノボルのような気分になる。
一人で制作していたアニメーションが劇場でかかる。
単館中心だった公開規模がシネコンサイズになる。
『天気の子』(2019)では、日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞する。
知る人ぞ知る映像作家から国民的、世界的アニメーション監督の一人になる。
これらのことに、本来作品が届きうる距離、それにかかる時間を一足飛びに超えて行ったような途方もない距離を感じる。
しかし、その実、一つひとつの作品に取り組んできたことで、遥か遠くまでたどり着いたことを知っている。だから、どれだけ遠くにいても、監督はいつでも”ここにいるよ”[8]と言ってくれている気分にもなる。
これからも監督の作品を観て、一生に一度のワープに見えるような距離を着実に歩んでいくことの尊さ、大切さを感じようと思う。
余談
監督の作品のポジティブさを受け止めたいと言いながら、たまに、少し、過去のフィルムグラフィのナルシズムや作家性を感じてみたいという気持ちにもなる。明日は休みだ。リバイバル公開中の「秒速5センチメートル」で久しぶりにそれを感じてみようと思う。
引用・出典
[1]新海誠(2011)『星を追う子ども』
[2] [3][6] [7]新海誠(2022)『すずめの戸締り』
[4]『ふたりごと〜一生で一度のワープ ver」/RADWIMPS
[5]『君と羊と青』/RADWIMPS
[8]新海誠(2002)『ほしのこえ』
参考
新海誠(1999)『彼女と彼女の猫』
新海誠(2002)『ほしのこえ』
新海誠(2004)『雲のむこう約束の場所』
新海誠(2007)『秒速5センチメートル』
新海誠(2011)『星を追う子ども』
新海誠(2013)『言の葉の庭』
新海誠(2016)『君の名は。』
新海誠(2019)『天気の子』