見出し画像

【エッセイ】 無駄の価値と豊かな時間の作り方(2020年4月)

はじめに

アカウントを作っておいて、これまで活用してこなかったので、月一回くらいのペースで更新できればと思います。普段は仕事のかたわら公募に出す小説を書いています。このエッセイも仕事の話と創作の話に分けて書きます。長い文章ですので、お好きなところをお読みください。

※仕事の話はすこしドライですが、不満があるわけではありません。そもそもドライな人たちが集まる職場なのです。

ヘッダーは、ほろよいのクリームソーダサワースーパーカップでつくったクリームソーダです。最近、『放課後ソーダ日和』を観て、影響されました。

仕事の話


新しい書籍の原稿を書いている。ありがたいことに専門分野で声をかけていただき、先月、本名名義で4冊目の共著が出た。まだ、世の中が不安定になる前に刊行することができたのは幸運だった。今の仕事の相手先は、完全に在宅に切り替わったということで、今後の予定は未定という状況だ。あらゆる業態で今までのような仕事の仕方が見直されるだろう。

まだ社会情勢が安定しておらず、予断は許さないが状況ではあるが、私が働く幸い職場で大きな被害は出ていない。とはいえ、新年度の開始時期が延びたことで影響を受ける仕事なので、前年比で仕事量は三倍くらいになっている。

この状況下で、思わぬ形でこれまでの仕事上の不便が解消されてきている。特にありがたいのは会議だ。

大人になってまで、だれかれ構わず遊んでほしいと考える人が多いこの社会では、いたずらに会議を延ばす人がいるので、制約がある会議形式は非常にありがたい。

おまけに内容はレコーディング、アーカイブされる。会議としては最適化、効率化が図られつつあるのではないだろうか。これから日常を取り戻していったとしても、従来の会議だけは取り戻さなくてもよいと個人的には思う。

効率化という話になれば、対置されるのが無駄の価値だろう。会議が効率化されるほど、余剰が生むクリエイティブに注目が集まる。その価値を語る時、「一見無駄だと思われる話から価値あるアイデアが生まれる」といったことが引き合いに出されることが多いが、私もそれについては同感である。

しかし、それは仕事に真剣に取り組んでいるのが前提だ。
大方、いたずらに会議を延ばす人間は、できない理由を述べているのであって、そうした生産性のない会話をすることは価値ある無駄ではない。

話は逸れるが、今だからこそ、経営学者の野中郁次郎の『知識創造企業』が参考になるかもしれないので、備忘録的に貼っておく。全く専門ではないので、これから書くことについては、「自分の方が詳しい」、「実感でわかっている」、「私と解釈が違う」という人もいるだろうと推測する。私なりの解釈である。

野中郁次郎はマイケル・ポランニーの「暗黙知」の概念を企業のナレッジマネジメントの分野で用いた。そのため、両者は本質的には異なるものである。より理解を深めるには、マイケル・ポランニーによる『暗黙知の次元』を読んだ方が良いのかもしれない。

やや乱暴に言えば、「暗黙知」とは、経験的に知っているが言語化が難しい知識のことである。経験知ともいう。特に、個人の文脈に紐づいており、共有することが難しい。ちなみに、言語化できる知識のことを「形式知」という。

個人的には、暗黙知を考えるとき、言語化されていない知があると認めることが大事というより、不器用なりにもそこにつながる回路を形成し共有していくことに意味があるものと思う。

会議の話で言えば、ウェブミーティングで効率化された会議では、たいてい、「形式知」しか共有されないが、同じ環境にいる中では、要領をえない無駄話であったとしても、価値のある「暗黙知」を形成し共有していくことができるかもしれないということである。

一見、つながりのなさそうなアイデアを結びつけたり、他にはない組織文化を創るということには「暗黙知」の形成、共有が不可欠で、効率化された会議にシフトしていくほど、それが難しくなっていく。そうした会議が実現されつつあるいま、翻って、そうした実験的な会話や思考が生まれる環境をつくる無駄の価値も認めていかなければならないのかもしれない。

在宅やリモートワークを実現した後に議論される課題は、今まで無駄が生んできた価値を実現する方法だろう。

私は、デジタル環境での体験を実際の体験に置き換えて捉えるような価値観の転換が必要と考える。実際に見て触れて体験するということの下位互換としてバーチャルがあるのではなく、一定程度それを同じものとして受け入れる柔軟さが求められているのだと思う。その点では、これからの社会の担い手がSNSやウェブでのコミュニケーションに慣れ親しんできたというのは救いであろう。あとは倫理観の問題である。この点は、森博嗣のミステリ小説『すべてがFになる』の冒頭、真賀田研究所でのやりとりが予言めいたことを書いている。(私の読書史上最高の体験で、同氏の作品は全て買っているほど影響を受けている)

さんざん、無駄の話をしていると効率化重視の人間だと思われるかもしれない。しかし、効率化は、みんなにとって価値のある豊かな時間をつくるために行うものであって、時間をセーブすることは目的ではない。必要な議論は時間をいくらかけてでもとことんやるのがいいだろう。

各々が本当に価値があると思うことに時間を使えるようなツールを受け入れて、時間をつくるのがハッピーではないかというのが私の考えである。
みんなが会議にこそ価値があると認めるなら、一生会議をしていれば良い。私はそんな組織に未来はないと思うが。

在宅は誰からもストップをかけられないので、普段のより長時間仕事をしてしまうことが分かった。そして、よしなしごとを考える時間も増える。そのせいで、「無駄話」の価値をこんこんと述べただけの無駄な文章をかいてしまった。誰かにとって価値ある無駄話であればよいのだが。

創作の話

私にとって価値ある豊かな時間だと感じるのは、何かを創作している時間である。

最近、某新人賞に応募する作品を書いている。進捗は八割ほど。締め切りは二か月後だ。

平日は毎日最大二時間と決めて、5,000文字程度進めていく。土日は制限を設けずに書けるだけ書くか、すでに書いた文章を修正している。先週は一行が決まらず、思い悩んでいたが、峠を越えるとまた流れだした。

震災のときもそうだったが、パラダイムシフトが起こりかけているとき、
創作はその収束を見越して、ポスト震災やポストコロナの世界を描くかどうか、そのスタンスに決めなければいけない風潮があるように感じる。

創作の中で社会がどう描かれようが自由だと思っているが、
考えるべきは、読み手の意識がどうなっているのかということなのだろう。

私が初めて公募に出したのは2018年の第35回太宰治賞だった。

その年、何かを作らないと自分の人生がはじまらないという漠然としていながらも確かな予感がして、書き方の作法や文学賞の知識もないまま二週間ほどで処女作の『みやこおち』という作品を書き上げ、送付した。(その前、半年間ほど、ウェブ小説のサービスを利用してどんなものが読まれているのか勉強した)

太宰治賞に応募した理由は、初めて教科書以外で読んだ小説が、津村記久子(太宰治賞出身)氏の『ミュージック・ブレス・ユー!!』だったからだ。

『みやこおち』は、予選を通過した。それが嬉しくて、今も懲りずに書き続けている。ちなみに、太宰治賞2019 受賞作 阿佐元明氏の『色彩』は大好きな作品だ。
(もし、私の年齢と居住地を知りたいという方は、筑摩書房『太宰治賞2019』をお求めください。予選通過作品が一覧となっています)

『みやこおち』は、まさにポスト震災を描いたものではあったが、その惨禍や苦難を描こうとは思わなかったし、ましてやテーマにしようとも思わなかった。
世界が終わるような揺れを経験しても、世界は終わらないことに気付いたのだから、その後に続く生活を書くことが自然だと考えたからだった。

「何かが変わっていく」というみんなが共有している実感や知識を再生産するよりも、その中でも変わらずにある言語化されていない暗黙知に回路をつなぎたかったので、一人の女性のゆるやかな再生をあくまで地方都市の生活について描くことで表現しようと試みた。
読み返すと反省点も多い淡々とした小説だったが、1201作品中93作品には残ったのだから、読んでくださった方に、作者が思ってもみない面白さが伝わったのかもしれない。

衝動で書いたものが何だったのか、ぼんやりと気になりだしたのは、投稿したあと、Base Ball Bear の『THE END』という曲を聴いた時だった。

” 終わりはそう、終わりじゃない 緞帳の奥は暗闇じゃない
エンドロールは走馬灯じゃない 物語に終わり何てものはない
「めでたしめでたし」じゃない 僕の生活は終わらない
終わりはそう、終わりじゃない ラストシーンはスタートラインでしかない
「昔々の話」じゃない 僕の人生は つづくつづく ”

                       (出典:『THE END』/Base Ball Bear 『二十九歳』)


こういうことが書きたかったのかもしれないなと、感じた。

めでたしめでたしで終わる生活はないし、戦いの終わりに流れるエンドロールを見るために生きているのではないということを書きたかった。
明確な終わりなど一つもなく人生は続いていく。それは今も意識している。

おわりに

最近、仕事で撮りためていた映像を見返す機会があった。
よく晴れた空と横断歩道が写っている。
歩行者信号が青になった瞬間、それを知らせるひよこの声が流れる。
最近、聞いていない音だと気づき、胸がつまる思いがした。

これまであった生活音が恋しくなるというのは、新しい社会に適応できていない、ただのノスタルジーかもしれないけれど、そうした感性が自分の中にまだあるというのは、また日常を取り戻そうとしているという希望でもある。

私の人生もつづくつづく。

2020.4.25


いいなと思ったら応援しよう!