美しい人
私は「美しい人」と聞くと、大学時代のある友人の事を思い出す。
同じ大学で美学美術史学を専攻していた彼女は、とても美人で、当時私が知っている誰よりもおしゃれで、
柔らかな雰囲気も、話を聞いている真剣な顔も、笑った顔も、周りへの思いやりも、ゼミで作るパワーポイントの資料も、彼女が発するものは全て美しい、と私は感じていた。
20年近くたった今でも、その美しさを見た時のハッとした瞬間を思い出せるくらいに。
私は、彼女にとって、いつでも一緒!何でも語り合える!というような友人では無かった。
でも、学部や専攻を超えて学生が集まり学ぶ事ができるゼミの同期で、
絵の具だらけの白衣とたくさんの画材やらを携え、ヨーロッパの街並みを再現した某ショッピングモールの壁を夜な夜な修復する、というちょっと変わったバイトの先輩で、
お互いの結婚式には大学友人の席で参列し祝福しあい、
子どもが産まれたら、同じような時期に産まれた赤ちゃんを連れて友人宅に集まって。
青春の一刻、人生に何度かある最高に幸せな時間、を確かに共有した、大切な友人の一人だ。
その彼女が昨年癌で亡くなった、と知った。
彼女のSNSは去年の夏を最後に更新されていなかった。
でも、まさか。
信じられないと同時に、「亡くなった」という現実は、紙に落ちたインクのように、じわじわと心に広がっていく。
「癌」という単語から想像される、彼女が経験したであろう様々な出来事。
告知された時の衝撃と不安。
治療と、それに伴う苦痛や葛藤。
彼女を心から愛し、彼女が心から愛したご家族の気持ち。
何より、幼い我が子を遺して先立たねばならない無念さ。
思わず「よく頑張ったね」という言葉が何度も口から溢れ、
ご家族の悲しみに、少しでも癒しがありますように、と合唱して祈った。
「なんで彼女が」「願わくばもう一度会いたい」
それを考え始めると、出口のない迷路に迷い込んだようだ。
「理不尽」という看板が立った行き止まりに出くわし、もと来た道を戻っては、また別の行き止まりに出くわし。
「願わくば」を数えると、どれも叶わない現実に絶望を感じる。
彼女は、自分の死によって友達が理不尽や絶望を感じるなんて望んでいないはずだと思い、自分を落ち着かせる。
しかし、「なんで」「願わくば」は、意識の底から時折水の泡のように浮かび上がってきては、張力の限界が来て消えるまで、しばらく意識の水面に滞在するのだった。
人は寿命を迎えると肉体を脱ぎ、魂の源に帰る。今世で経験した事を魂の源に報告した後は、その大いなる存在と一体となり、安らかで、絶対安寧の境地に至る。そんな話を思い出した。
彼女が生きている間に見たたくさんの美しいもの。その美しさに心震える経験。そこから生まれる感情。美しさを敏感に捉えることが出来る人は、その逆の醜さも同様にキャッチしてしまう。そして、醜い行動によって生まれる悲しみも。彼女は周りの人の悲しみも放っておけない人だ。それによって何人の人が救われただろう。
彼女の訃報を聞いた5月の終わり、梅雨の沖縄では貴重な晴れの日が数日続いていた。
5月は彼女の生まれた月。
朝、息子と幼稚園までの道を歩く。
暑い夏を迎える前、風が吹くと心地よく、道脇の草の緑は鮮やかで、花はそれぞれの色を愛らしく、そして誇らしく咲かせている。
そんな気持ちの良い5月を表したこだわりの名前を娘につけた、と彼女のお父さんは結婚式のスピーチでおっしゃっていた。
全身で5月の風を感じる。
彼女の美しい笑顔を思い浮かべながら。
水色の園帽をかぶった息子の頭を撫でてみる。
手に伝わってくる息子の命。
なんという奇跡を、私は生きているんだろう。
「生きていることへの感謝」
そんな気持ちも湧いてくるが、
悲しみや喪失感で心の中はぐちゃぐちゃだ。
彼女の死を受け入れるには、まだ時間がかかりそうだ。
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