ジャズ事件簿 【熊さんのジャズ雑談】
レコードに残されたジャズの珍事件
ジャズという音楽の大きな聴きどころが、アドリブ=即興演奏です。しかしその場で即興演奏を行なうということは、様々なアクシデントやハプニングも起こりやすくなるというリスクもはらんでいます。そしてそれによって演奏がさらに盛り上がったり、予想しないような名演が生まれることもあれば、逆に演奏が破綻してしまったりすることもあります。しかもジャズは基本的にダビングや修正を行なわない一発録音ですし、1980年代以前のレコーディングは、現在のように音を修正したり差し替えたりすることもできなかったため、そのアクシデントやハプニングが、そのままレコードやCDに記録されてしまっているものもあるのです。いわゆる“名盤”と呼ばれているものにも、そんな作品がしばしばあります。
そういった人間くささや、その“予想できない展開”が楽しめるのも、ジャズという音楽の大きな魅力だといえるでしょう。
不完全な傑作
『モンクス・ミュージック / セロニアス・モンク』
ジャズ・ファンの間で“不完全な傑作”として知られているのが、ジャズ史上最も偉大なピアニストのひとりであるセロニアス・モンクの『モンクス・ミュージック』です。1957年6月26日夜、モンク(p)、コールマン・ホーキンス(ts)、ジョン・コルトレーン(ts)、レイ・コープランド(tp)、ジジ・グライス(as)、ウィルバー・ウェア(b)、アート・ブレイキー(ds)というジャズの巨人たちが集結したレコーディングでしたが、人気者ばかりのためにリハーサルもままならず、しかも一晩でアルバム1枚分をレコーディングしなければならなかったために、モンクの、難解で複雑な楽曲をミュージシャンたちがマスターするには時間が足らなかったことが、この不思議な作品を生み出しました。「ウェル・ユー・ニードント」では、ピアノ・ソロのあと突然モンクが“コルトレーン、コルトレーン”と、ジョン・コルトレーンにソロを促します(コルトレーンがソロの順番を覚えていなかったようです)。するとブレイキーがそれに気を取られて進行を間違えて、ドラム・ロールを入れるところではないのに入れてしまい、演奏が一瞬止まりそうになります。また「エピストロフィー」では、ドラム・ソロでブレイキーが半コーラス分余計に叩いてしまい、ホーキンスがオロオロしてしまいます。そんなハプニング続出の作品なのですが、各プレイヤーのソロは素晴らしく、名盤として多くのファンに愛され続けています。またこの演奏を作品化したプロデューサーのオリン・キープニュースも、ジャズの本質をよく知っている人物だったといえるでしょう。
伝説の“ラヴァー・マン・セッション”
『チャーリー・パーカー・ストーリー・オン・ダイアル Vol.1』
(リンクはベスト・アルバムです)
ジャズ・ファンの間で“ラヴァー・マン・セッション”として知られているのが、偉大なるアルト・サックス奏者チャーリー・パーカーの1946年7月26日のレコーディング・セッションです。当時彼はアルコールとドラッグに蝕まれており、この日も朦朧とした状態でスタジオに現われました。彼の肉体・精神の状態は最悪で、彼の希望で演奏された「ラヴァー・マン」では、最初のメロディを吹きそこねたり、ソロもヘロヘロで、結局この日は4曲を録音したところで中断を余儀なくされました。さらにその夜、彼はホテルのフロントに全裸で現われたり、タバコを手にしたまま気を失ってボヤ騒ぎを起こしたりして、結局そのまま精神病院に収容されて半年間の闘病生活をおくることになります。その伝説のセッションの録音は、まさに、墜ちていく天才の姿を捉えた貴重なドキュメントになりました。
一世一代の名ソロを生んだハプニング
『アット・ニューポート1956 / デューク・エリントン』
ジャズ史上最高の作曲家であり、バンド・リーダーだったデューク・エリントン率いるオーケストラは、1956年にニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演しました。ビッグ・バンドでは、通常はソロのサイズが決まっていることが多いのですが、「ディミニュエンド・イン・ブルー・アンド・クレシェンド・イン・ブルー」演奏時に、テナー・サックスのポール・ゴンザルベスが乗りすぎたあまり、決められたサイズを無視して延々とソロを取り始めました。さらに、別のグループのメンバーで出演していたドラマーのジョー・ジョーンズがステージの袖から彼を煽り、完璧主義者で厳しかったエリントンもそのソロの熱さには負けて、さらに煽ったものですから、ゴンザルベスのソロは止まらなくなり、ついには観客たちも踊り出します。結局彼は27コーラスもソロを吹き続け、彼の一世一代の名演となったのでした。
スキャット唱法誕生の瞬間?
『ザ・ベスト・オブ・ザ・ホット5・アンド・ホット7・レコーディング / ルイ・アームストロング』
(リンクはベスト・アルバムです)
ジャズ史上、初めてスキャット唱法がレコーディングされたといわれているのが、NHKの朝ドラでも話題になった"サッチモ"ことルイ・アームストロングの「ヒービー・ジービーズ」。1926年2月26日、シカゴでのレコーディングです。この曲のレコーディングで、サッチモが歌っている時、歌詞を書いた紙を落としてしまい、咄嗟に“シュビドゥビ”と歌い、それがスキャット唱法の始まりだ、という伝説があります(諸説あります)。途中で誰かが歌詞の紙を拾ったのか、また突然歌詞に戻ります。
歓声も曲の一部?
『マイ・ファニー・ヴァレンタイン / マイルス・デイヴィス』
『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』は、ジャズ界最大の巨人マイルス・デイヴィスの1964年のライヴ・アルバムです(ちなみに『フォア・アンド・モア』も同じ日のライヴ録音です)。3曲目の「ステラ・バイ・スターライト」のテーマの途中、観客のひとりが感極まって叫び声を上げます。はっきり言って邪魔な声なのですが、アルバムを聴くたびに当然この声も聞こえるので、ジャズ・ファンの間ではこの声も“作品の一部”として認知されています。さらに1曲目の「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」でも観客の口笛が聞こえます。
共演を拒む渾身のソロ
『チャーリー・パーカーに捧ぐ / 渡辺貞夫』
1969年3月15日、渡辺貞夫(as)のグループに、ゲストとして日野皓正(tp)が加わって、チャーリー・パーカーの愛奏曲ばかりを演奏するというコンサートが開かれました。しかし当日、演奏中にシンバルがスタンドから外れて落ちるというハプニングが起こり、また日野皓正がトランペットの吹きすぎで唇を腫らしてしまい、まともに楽器を吹けないような状態でした。このままではちゃんとした演奏を聴かせることはできないと判断した渡辺貞夫は、突然グループのメンバーたちをステージから下げ、たったひとりで、ソロで「言い出しかねて」を吹き始めます。さらにそのまま、次に予定されていた「オー・プリヴァーブ」もソロで吹き始めたのですが、慌てたのはメンバーたち。急遽ステージに戻っ、演奏に加わろうとタイミングを見計らいます。日野皓正もトランペットをパラパラと吹いて“ここにいますよ”と渡辺貞夫に知らせます。しかし渡辺貞夫はそれを拒むように、ひとりで吹きまくります。その後渡辺貞夫が、グループが入れるタイミングを作ってようやく全員の演奏になるのですが、その緊張感はジャズならではのものです。またその後の日野皓正のソロは、高音がまったく出ず、おそらく作品として残されたものの中では最悪の状態でのソロだと思われますが、その頑張りには心打たれます。
豪雨が生んだ、奇蹟の名演
『ライヴ・アンダー・ザ・スカイ伝説 / V.S.O.P.ザ・クインテット』
1979年7月26日、東京・田園コロシアムで行なわれたジャズ・フェスティヴァル“ライヴ・アンダー・ザ・スカイ”に、当時人気絶頂だったV.S.O.P.クインテットが出演しました。メンバーは、ハービー・ハンコック(p)、ウェイン・ショーター(sax)、フレディ・ハバード(tp)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)。しかしこの日の会場周辺は、今でいうところの"ゲリラ豪雨"に見舞われ、出演者も観客もずぶ濡れになっての演奏になりました。しかし大雨の中でも帰ったりせずに一生懸命聴いている観客たちに感動したミュージシャンたちも、精一杯の名演で応えました。その時のライヴ・アルバムには、雨の音や、“ステージの水たまりで泳ごうか”というハンコックのMCも入っています。そしてライヴが終わっても30分以上もアンコールの拍手が鳴り止まず、それに応えてハンコックとショーターがステージに再び登場し、デュオで演奏し始めました。最初二人は、「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」を演奏しようといってステージに上がったのですが、ショーターがなぜか「ステラ・バイ・スターライト」を吹き始めました。なぜこの曲を吹き始めたのか、ショーター自身も判らないと、後に証言しています。この演奏は、その後「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」へと続いて感動的に幕を閉じたのですが、今も伝説の名演と語り継がれる歴史的な演奏になりました。
すごいソロに聴き惚れた?
『ハーフ・ノートのウェス・モンゴメリーとウィントン・ケリー』
ジャズ・ギターの歴史を変えた天才ウェス・モンゴメリーと、スウィング感溢れる演奏が身上のピアニストのウィントン・ケリーが、“ハーフノート”というジャズ・クラブで行なったライヴの模様を収録したのがこのアルバム。「ノー・ブルース」でのウェスのソロの途中、突然ケリーがピアノの伴奏を止めます。当時は“ウェスのソロがあまりにも素晴らしかったので、ケリーが弾くのを止めて聴き惚れていた”と言われていたのですが、本当は店の店員が、おそらく音響面の調整のためにケリーに話しかけていたためだった、というのが事実らしいです。
ジャズ史に残るケンカ・セッション
『マイルス・デイヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ』
1954年12月24日、クリスマス・イブにジャズ史に残るレコーディングが行なわれました。のちにマイルス・デイヴィスとセロニアス・モンクの“クリスマス・セッション”、もしくは“ケンカ・セッション”として語り継がれるレコーディングです。その日はマイルスのリーダー・セッションで、プロデューサーのボブ・ワインストックはピアニストとしてモンクを起用しました。モンクはマイルスより年齢もキャリアも上であり、マイルスもモンクのことを尊敬していましたが、「ザ・マン・アイ・ラヴ」のレコーディングの時に事件が起こります。テイク1では普通に演奏していたのですが、モンクのピアノがあまりにも個性的すぎるため、マイルスはモンクに“オレのソロのバックではピアノを弾くな”と要求しました。そこでテイク2が録られたのですが、当然モンクとしては面白くありません。そしてモンクはピアノ・ソロの途中、“やってられるか”とばかり、突然弾くのをやめてしまいます。するとマイルスはトランペットで、モンクに“弾け、弾け”と促します。するとモンクのハートに火が付いたのか、そこからすごいソロを展開するのです。その音から伝わってくる緊張感はすさまじく、ジャズ史に残る奇跡の名演が生まれました。そしてリリースされたレコードにはそのテイク2が収録されています。
© 熊谷美広