フュージョン・ミュージックの歴史
この文章は、廃刊となってしまった音楽雑誌「ADLIB」の2006年1-12月号に連載していたものに、加筆・訂正したものです。
1. フュージョン・ミュージックの始まりとクリード・テイラー / CTIの功績
フュージョン・ミュージックって何?
フュージョン・ミュージック(以下 : フュージョン)の歴史を紹介していく前に、そもそも“フュージョンって何?”という疑問を持っている人も多いかも知れない。様々な本などを見ても、マイルス・デイヴィス、ウェザー・リポート、パット・メセニー、クルセイダーズ、ラリー・カールトン、アール・クルー、ケニー・G、フォープレイなど、それぞれスタイルや音楽性の違うアーティストたちが、“フュージョン”というひとつのジャンルで括られて解説されている。またフュージョンを批判する人は、例えばアル・ディメオラあたりを例に挙げて“テクニック至上主義”などと評し、その一方でケニー・Gあたりを例に挙げて“耳あたりのいいだけの音楽”などと評したりしている。そのふたつの批判などは、まったく逆のベクトルを持っているのに、そのどちらもが、“フュージョン”というひとつの枠の中に収まっているという、なんとも不思議な現象が生まれているのだ。そういった様々な音楽性をひとつにまとめているフュージョンって、何だ? という疑問が起こってくるのも当然かも知れない。
ということでまず最初に、私が考える“フュージョンの定義”を解説しておこう。“fusion”という単語を辞書で調べると、“融合・合同”などの意味があることがわかる。つまりフュージョンという音楽は、その名の通り“融合”の音楽なのである。1960年代後半から、ジャズとロックを中心に、様々な音楽の要素が融合して生まれてきた音楽が“フュージョン”と呼ばれるようになっていった。基本的なスタイルとしては、エレクトリック・ギター、エレクトリック・ベース、エレクトリック・キーボードなどといった電気楽器を使用することが多く、リズムとメロディをロック/ポップスから、そしてハーモニーとインプロヴィゼイションをジャズから取り入れた音楽が、今日フュージョンと呼ばれている音楽の基本フォーマットだと私は考えている。
また以前フュージョンは、“クロスオーヴァー”とも呼ばれていた。では“フュージョン”と“クロスオーヴァー”とは、一体何が違うのかということも解説しておきたい。
1960年代前半、ザ・ビートルズやローリング・ストーンズなどといったロック・アーティストの登場や、モータウンの設立によるR&Bのブレイクなどにより、エレクトリック・サウンドを取り入れた新しいタイプのポップ・ミュージックが台頭し、音楽シーンに新風を吹き込んだ。そしてジャズもそれらの音楽の影響を受け、先進的なジャズ・ミュージシャンたちは、積極的にそういった“新しい音楽”の要素を自分たちの音楽に取り入れ始めたのである。当時そのような音楽は、“ジャズ・ロック”とか“ジャズ・ファンク”などと呼ばれ、まだジャンルとしては確立していなかったが、その後新しいスタイルの音楽が続々とシーンに登場するようになり、そういった音楽はジャンルの垣根を越えた“越境音楽”という意味で、“クロスオーヴァー・ミュージック”と呼ばれるようになっていった。そう、“クロスオーヴァー”という言葉は、音楽スタイルの“状況”を表わす言葉であり、“ジャンル”を表わす言葉ではなかったのだ。ところが日本では、それが“クロスオーヴァー”というジャンル名として定着することになる。そして1970年代の中盤あたりで、アメリカでも“クロスオーヴァー・ミュージック”がより多くのファンに支持されるようになっていったため、それを総称するジャンル名として、“フュージョン”という言葉が生まれ、一般的になっていった(当時WEA Internationalの幹部だったネスヒ・アーティガンが言い始めたという説もある)。そしてその“フュージョン”というジャンル名が日本にも入ってきて、当時は“フュージョン”と“クロスオーヴァー”というふたつのジャンル名がシーンに混在し、ちょっとした混乱を招いたこともあった。だから“フュージョン”と“クロスオーヴァー”は、実は同じ音楽のことを指しているのである。それが時期によって、呼ばれ方が違っていただけなのだ。
クリード・テイラーの功績
フュージョンという音楽は、特定のミュージシャンが作り上げたのではなく、渾然としたミュージック・シーンから“時代の必然”として登場してきた音楽だ。1960年代の中頃から、様々なアーティストたちが新しい音楽に果敢に挑戦し、その中からフュージョンという音楽が形作られていったのである。ここからは、そんなフュージョンというムーヴメントが生まれていった様々な要素や、フュージョンの原点を創り出していった人物たちについて紹介していきたい。
1960年代には、ジャズ以外のフィールドからも、後のフュージョンに大きな影響を与えるインストゥルメンタル・ミュージックが登場していた。ヴェンチャーズ、シャドウズ、アストロノウツ、デュアン・エディ、ディック・デイルなどによる、いわゆる“サーフ・ロック"と呼ばれたロック・インストは一世を風靡して、特に後のギタリストたちに大きな影響を与えたし、またチェット・アトキンス、サント&ジョニーなどといったカントリー系のインストゥルメンタル・ミュージックから強い影響を受けた、後のフュージョン系のミュージシャンも多くいる。またメキシコ音楽である“マリアッチ"をベースに、ポップ・ミュージックの要素も加えてヒット曲を連発した、ハーブ・アルパート(tp)率いる“ティファナ・ブラス"の存在も忘れちゃいけない。
ジャズ・シーンでも、1960年代中頃から、ジャズに新しいポップ・ミュージックの要素を取り入れようとする動きが各方面から起こり始めていた。1963年にリー・モーガン(tp)が『サイドワインダー』でロックの8ビートを大胆に取り入れて話題となり、1965年にはファンキー・ジャズよりさらにR&Bの要素を強くした、ラムゼイ・ルイス(p)の『ジ・イン・クラウド』が大ヒットを記録し、1966年にはファンク・ビートとエレクトリック・ピアノを効果的に取り入れたキャノンボール・アダレイ(as)の「マーシー・マーシー・マーシー」(作曲とピアノはジョー・ザヴィヌル)が大ヒットするなど、その“胎動”はすでに起こり始めていた。そしてそんな動きにいち早く反応したのがプロデューサーのクリード・テイラーだった。彼は1950年代にベツレヘム・レコードのプロデューサーとして活動を始め、1960年代にABCレコードに移籍してジャズ・レーベル“インパルス”を設立し、1961年にヴァーヴ・レーベルがMGMレコードに買収されたのをきっかけに同レーベルのプロデューサーに就任した。そして彼は1963年に、スタン・ゲッツ(ts)と、当時まったく新しい音楽だったボサ・ノヴァをプレイするブラジルのミュージシャンたちとの共演による歴史的名盤『ゲッツ/ジルベルト』を世に送り出して一世を風靡する。そういう意味で、彼はこの頃からジャズとブラジル音楽とのフュージョンをやっていたわけだ。さらに彼はウェス・モンゴメリー(g)とオーケストラの共演による『ムーヴィン・ウェス』(1964年)、『バンピン』(1965年)、『夢のカリフォルニア』(1966年)などといった、ジャズにポップスの要素を取り入れたアルバムを制作してヒットさせ(ちなみにウェスは1963年に、ストリングスと共演したそのものズバリ『フュージョン』というアルバムも制作している)、また『ソフト・サンバ/ゲイリー・マクファーランド』(1964年)、『ソウル・ソース/カル・ジェイダー』(1964年)、『サマー・サンバ/ワルター・ワンダレイ』(1966年)などといった、ジャズに他の音楽の要素とを融合させ、のちの“フュージョン”に影響を与えた作品を数多く制作している。
そして1967年、フュージョンの歴史に大きな足跡を残すことになる出来事が起こる。クリード・テイラーがA&Mレコードに移籍し、彼がプロデュースするシリーズ“CTI”(Creed Taylor Issue)をスタートさせたのだ。そこでテイラーは、ヴァーヴ時代に数多くの作品をプロデュースしてきたウェス・モンゴメリーをレーベルに招き入れ、レーベル第1弾アルバム『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』を制作する。ドン・セベスキーのアレンジによるソフィスティケイトされたオーケストラを配し、ザ・ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「エリノア・リグビー」、パーシー・スレッジの「男が女を愛するとき」、アソシエイションの「ウィンディ」などといったポップス・チューンを取り上げ、ウェスの淡々とした、しかし感情豊かなオクターヴ奏法によるギターがメロディを歌い上げていくというこの作品は、当時は“イージーリスニング・ジャズ”と呼ばれ、コアなジャズ・ファンからはソッポを向かれたが、一般的には大ヒットし、ウェスはこの1枚で大スターとなった。それまでの彼のアルバムのように、圧倒的なテクニックとグルーヴ感で弾きまくるということはないが、メロディをシンプルに、そしてストレートに歌い上げることのすごさと素晴らしさを、ウェスのギターは見事に表現していたのである。今聴くとルディ・ヴァン・ゲルダーの手による録音やサウンド処理のセンスの良さ、コンセプトの新しさなども含めて、このアプローチが正しかったということがよくわかる。これぞまさに、フュージョンという音楽の原点ともいうべき画期的な作品だったのである。
その後もテイラーとウェスのコンビは『ダウン・ヒア・オン・ザ・グラウンド』『ロード・ソング』と、同コンセプトによるヒット作を立て続けにリリースしていずれもヒット作となるが、1968年にウェスが心臓発作で急逝すると、今度は当時若手ギタリストだったジョージ・ベンソンをポスト・ウェスとして抜擢し、またドン・セベスキー、クラウス・オガーマン、ロイ・グローヴァー、デオダートなどといったアレンジャーを起用して、ゴージャスなオーケストレイションを施した『フロム・サンディ・アフタヌーン/ポール・デスモンド』『グローリー・オブ・ラヴ/ハービー・マン』などといった“イージー・リスニング・ジャズ”の名作を数多くリリースしていった。このA&M/CTIにおけるクリード・テイラーのアプローチこそが、のちのフュージョンのひとつの原点になっていったのである(ちなみにクリード・テイラーは1970年に独立し、自身のインディペンデント・レーベル“CTI”(Creed Taylor Inc.)を設立、本格的なフュージョン作品の制作にもかかわっていくことになる)。
さらに1969年、A&M/CTIから、もうひとつの新しいムーヴメントが起こる。クリード・テイラーは、1950年代に彼がプロデュースした名作『私の考えるジャズ』を制作したアレンジャー、クインシー・ジョーンズをA&M/CTIに招き入れて、彼にまったく自由にアルバムを作らせた。そして誕生したのが、のちのフュージョン・シーンに多大なる影響を与えることになる画期的作品『ウォーキング・イン・スペース』だった。
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