一見さん
グラスの氷が溶け始めている。
京都、四条烏丸の裏通りにある地下の「BAR FLAT」で、私はサツキを待っていた。
バーはカウンター席が10席程度。席の背中にはすぐ壁があり、こじんまりとしている。しかし、4人の外国人観光客が大騒ぎしているため、満員に感じる。きっといつもなら程よい広さで居心地も良いのだろう。
こだわりのありそうなスピーカーからはAC/DCの激しいギターロックが流れているが、今ではもはやクラシックなので目新しさは感じない。その曲調とタバコの煙が充満する店内は、アメリカのウィリアムズ出張で立ち寄ったパブを思いださせる。独特の土臭さは男が思い描く理想の秘密基地のようだ。
「遅くなってすみません。待ちましたか」
店内入り口に陣取っているか4人組の外国人観光客を避けて、店内一番奥の私の席にサツキがやってきた。
彼女は深い墨色のジャケットにパンツのセットアップ姿だった。
このロックで男臭く騒がしいバーに、ジャケパンでバリバリ働くOLが一人でタバコでも吹かしたら、ハードボイルドでカッコいいだろう。
しかしサツキはどちらかというと社交的なタイプで、友人の多い彼女はこんなところには一人でやってこない。その証拠に私をここに呼び出している。クールでワイルドとは真逆なのだ。
サツキが席に着くと、マスターが注文を取りに来た。
「お客さん、これですか?」
彼はおしぼりを持ってくるやいなや下卑た笑顔を浮かべる。かりんとうくらいの太さはありそうな小指をピンと立てて私にウィンクした。
マスターは見たところ、40代前半に見えるが、熊のような体型と顔を覆い尽くす髭が彼を老けて見せているのだろう。声は見た目とは不相応に高く、無理に大人ぶっている様子が妙に鼻についた。
「まだ、これからですね」
私は隣に居るサツキが私を少しだけ男として意識するように答えた。そしてマスターにはこれから恋人になるかもしれないという示唆を含めて見栄を張った。男性が女性を意識した発言は、女性の矜持を高めると信じている。そして、女性を連れた男性は他の男性に対して、自分の女だと誇示するのが私が友人の振る舞いから学んだ処世術だった。
彼女とは、綾西公園の近くの個人経営の「酒吞同志(しゅてんどうし)」という料理屋で知り合った。酒吞同志は、これまた別の小料理屋の主人から教えてもらった。そしてそのまた酒吞同志の主人から「BAR FLAT」を紹介してもらったのだ。
京都・鴨川にはこのように客を紹介し合う店がいくつもある。京都の一見さんお断りの文化は、このような形で今も生きているのだ。これは鴨川の経済を支えるため、予約をキャンセルをしない客を囲むという古来から伝わる合理的システムなのだろう。
そんな一見さんお断りな京の飲み屋の界隈性だが、不思議と縄張りのようなものがあり、五条から四条、河原町から烏丸など街を跨いで客を分け合うようなことはない。
だから、酒吞同志には自然と店の近辺にだけ顔を出す客が集まるのだ。私自身、ここに出張が多く、初めは現地上司の紹介でこの界隈に来た。最初はどこの店だったか思い出せないが、四条烏丸に宿を取ることが多く、この周辺でしか酒を飲んだことはない。私がこの界隈を根城にするように他の客も同じで、話したことのない人も何と無くは顔を分かっていて、夜の鴨川を中身とした小さな村のようだ。実際、酒吞同志もBAR FLATと向かい合わせで、看板はよく見ることがあった。
私の場合は同じ店に通うことが多かったが、ひょんな巡り合わせでやってきた客同士が何かの薄い縁を持っている。そんな京都の飲み屋の界隈性を私は気に入っていた。
しかしいくら観光の都、京都といえども、閑散期にはこの四条烏丸も客足が日に2人くらいとなる。普段は一見お断りの我らの界隈も、日銭のためにこの時期だけは一見さんや、うっかり迷い込んだ外国客を迎え入れるようになっているのだ。
そんな一昨日の6月の雨の日にやってきたのがサツキだった。梅雨に季節遅れのサツキがやってきたことを私は面白く思った。
「今日は、誰の紹介で?」
さっきまで外国人観光客の相手をしていた熊男がドシドシとやって来て話しかけてきた。
酒吞同志のマスターは彼と対照的に寡黙なタイプで、メニューも「おまかせ」だけなのが気に入っていた。だから余計にこの熊男のぐいぐいと話しかけてくるのが悪目立ちし、私はひどく煙たく思った。
サツキとは一昨日、知り合ったばかりだったので、店内が静かで話のしにくい酒吞同志ではなく、少しだけにぎやかそうな場所はないかと思い、紹介してもらったのがこの店だった。
「酒吞の——」
私が言い終える前に、
「ボウズさんね!」
熊男が食い気味に私の話に入ってきた。一見お断りというのは、何も店側だけの話ではない。一目見てお断りするのは客側も同じだ。私は彼のことを面倒に思い始めていた。もうこれきり、一見でお断りしようか。
「そうそう。最近エナドリ飲み過ぎかなと思って、この店紹介してもらったんですわ」
私はこの店が騒がしすぎると思い、怪獣を意味する有名なエナジードリンクの名前を伏せて、うるささを察せるように嫌味を込めて返事をした。
「すまへん。思ったよりこの店、静か過ぎでしたか?」
私はさっきから店内の騒がしさに圧倒されているサツキに気を遣って冗談を言った。
「いえ、酒吞さんのとこで会話ができそうなとこ、どこですかって、ここ紹介してもらったの私ですし。今晩は何だか上着も要らなそうです」
彼女は冷え性らしく、夜は冷え込む京都の夜を見越してジャケットの下にベージュのカーディガンを着てきていた。思いの外、店内は暖かいのでジャケットをカウンターチェアにかけ、カーディガンを脱いだ。その時ふわっと季節外れな香りがした。カーディガンを脱いだサツキから金木犀の香水が解放された。この香りを嗅ぐだけでなぜか秋の気配を感じるので不思議だ。服を脱ぎ、香りが香るのは季節の移ろいを感じて風情があるなとぼんやり思ったが、いづれにしても今日は梅雨なのだ。
しかし今日の昼は30度を越えていて夏のように暑く、私はシャツだけで外出してしまっていた。それがサツキの予想通り、夕方になり急に冷え込んだ鴨川から吹き上げる冷たい風には小便をもよおした。
「サツキさん、本当に東京の人です? なんだか冗談がうまい気がします」
私は昼間の暑さを思い返しながら言った。上着が要らなそうだと言ったサツキは、暗にこの店の盛り上がりによる暑苦しさと昼間の暑さをかけたのだと思った。
「冗談だなんて。本当のことですよ」
と言うとサツキは冗談だかどちらだか分からない笑顔をして、口元を手で隠した。私も京都の出身ではないので、何が京都流なのか分からないが、なんとなく反対のことを言って物事を皮肉るのがここでの習わしだと思っている。
「まあ! ゆっくりしなはりや。ここはどんな客も対等に扱うからFLATやねん。あ、でも気ぃつけてな。このボトルはサービスやけど、4杯目からは保証せんよ」
「なんでです?」
私は4が忌み数字だからかと思ったが。
「そりゃフラッと」
小声で「酔って」と付け足し、
「くるからやろ。」
私たちの間に冷ややかな沈黙が行間を支配した。
「あれ? 暑すぎる思ったんですけどね。え? え? ははは、ここ、笑うとこにしといてや」
寒いんだか、暑いんだか。サツキさんがカーディガンを脱いだのをよく見ていて、涼しくさせようとしたのか妙な気遣いだ。それは私が「暑いですか?」と尋ねたことを聞いていたから割って入ってきたのだろう。
明らかにこの場に似つかわしくない一見の客が大騒ぎしているので、人が大勢いるように感じるが、実際に店内には6人しかいない。地獄耳のマスターだと思ったが、私たちの会話はきっと筒抜けなのだ。
他の4人組は唯々諾々に騒ぎまくっていたので、マスターからしたらその騒ぎはもはや会話では無く、店内に流れるZZ TOPのハードロックのように少しだけ賑やかなBGMとして聞こえるのだろう。ここではかえってヒソヒソ声で話す私たちのほうが悪目立ちし、注目を集めるのだ。
「マスター! ボウズさんにおしゃべりするならここって言われたんですよ。どう思います?」
「そんなんお客さんが決めることやで! はい! XYZな! え、頼んでない? そりゃすきゅーずぃ!」
ドッと外国人客に笑いが起きた。私はもう転勤して10年、京都にいるがいまだにここの笑いは分からないものだなと思った。そう思いながらサツキの方を見ると、サツキも笑っている。
「XYZって英語で、開いている社会の窓を閉じてくださいって意味があるんですよ。つまり、呼んでもいないのに登場して、失礼しましたってことですね。あのマスター、意外と知的ですよ」
サツキは困惑する私に、半分興奮も交えながら笑いどころを説明した。鼻息を荒くして、ミックスナッツを頬張る彼女は、小柄な背も手伝ってかハムスターのように見えた。いや、カリカリとクルミをかじる姿はリスかもしれない。
私はアメリカ出張を思い返しながら京にいても、北米にいても疎外感を感じたのかもしれないと思った。
初めは最初からグイグイと来るマスターの厚かましさに煩わしさを感じたが、すべての人に平等に接するマスターの態度に次第に尊敬を抱き始めていた。
「サツキさんは、英語も堪能なんですね。僕なんて、イングリッシュはからっきしで、あ、いやこれ英語じゃなくて日本語なんですが」
「それを言うなら——」
熊男が言いかけると、
「ショアもない、ですね!」
「そうそう!乾いた岸、ショア〜!」
サツキも勢いがついてきたのか、たったの一杯で酔いがひどいのか、熊男の返しを引き継ぎ、私は完全に置いてけぼりになった。
「しょ、しょあ〜!」
私はとりあえず勢いに乗ったが、ハハハと乾いた愛想笑いを浮かべるのが精一杯で、早く帰りたくなっていた。もう一見でお断りしたい。
なぜ、サツキを誘ってしまったのか、入店して10分で既にひどい後悔だ。
「すみません、タグチさん。それで今日はありがとうございます! なんだか平日真ん中なのに、私が東京に帰るっていうから無理させちゃったみたいで!」
向き直って挨拶をしてくれたサツキはやっぱり可愛いような気がした。
一昨日知り合ったばかりだが、月曜日からひどく飲んでいた私は、普段は人のいない酒吞同志に若い女性が来たというだけですっかり舞い上がってしまい、声をかけてしまったのだ。
酒吞同志の店内には「ナンパ厳禁」という張り紙があったが、紫外線ですっかり黄色く色あせたそれは形式的なものになっていた。
一見お断りのこの界隈では、誰かが必ずつながっている。一昨日のように、暇であれば他の人に話しかけるのはそんなに不思議な光景ではない。
男女間であっても「誰の知り合いなのか」と声をかけるのは、きっと普通だ。決してやましい思いだけで声をかけることではないはずなのだ。
私は自分の中に強い信念、もとい言い訳と大義名分を掲げ、サツキに声をかけた。といっても、名刺を酒吞同志のマスター経由で渡してもらっただけだ。
「いえいえ! ボウズさんのおかげで、今日がありますし、ボウズさん意外とおしゃべりなんですかね。こんなに楽しいお店を紹介してくれるなんてびっくりしましたよね」
早めに残業を切り上げた私に気遣ったサツキに、気を遣わせないように私は話を押し進めた。
「そうなんですか? ボウズさん、私とお話するときはいつも少年のようにキラキラとした目でお話されますよ!」
「頭の話でなくて?」
「コテコテですね〜! 名前の話でしょ!」
私のくだらないボケを拾ってもらい命拾いしたが、どうやらボウズは猫をかぶっていたという驚愕の事実に、私はこの4年間の酒吞同志の静かな雰囲気は何だったのかと思った。
複数の仮面を使いこなすこの街の住民はやはり底が知れず、よく知ったつもりのこの街もまだまだ他の姿があるというのか。
しかし私もまた、これから帰宅すれば妻と子もいるし、それはどこの誰にとっても同じことなのかもしれない。仕事やバーでの姿が本質とは限らないのだ。
「それで東京に戻ってからはどうするんですか?」
「それ聞いちゃって良いんですか?」
私が尋ねると、サツキは肩より少しだけ短いショートボブをかき上げて、蠱惑的に微笑んだ。
BAR FLATは夜6時半でも照明が薄暗く、深夜の3軒目のように錯覚してしまいそうになる。
「私も東京に戻ることもあるかと思いまして」
「それなら聞いて良いんですかね〜」
サツキは口をすぼめて口笛を吹く真似をしながら、私の左手の薬指のあたりを見た。
指輪、外してきたはずだよなと思った。
私は一人で飲みに行くときは指輪を外すようにしていた。これは不貞を働くためではなく、独身の頃のような自由な気持ちに戻るためであった。
もちろん、指輪を外したからといって、妻や子のことを忘れることはないし、羽目も外さない。しかし、時々こうやって身分を隠して、別の仮面を被ることでリフレッシュをするのも大事なのだ。これが夫婦円満の秘訣だと思っている。
いや、指輪を外すと自由になるというのは、夫婦という仮面を外しているようで、何だか僕ら夫婦の仲の良さを考えると逆だなと思った。逆説的に言えば、指輪をつけることが仮面なのかと深く考え始めると、酔いの回り始めた頭では自己矛盾を抱えてしまいそうになるので、カウンターのバーボンを一気に飲んで思考を停止した。
「女性って意外と見えてるもんですよ」
サツキは私の薬指を今度は遠慮なしに凝視しながら言った。
外しているはずだ。
「でも、そういうことに気が付かないふりをするのができるようになるってのが、大人の女性なんですかね。どう思います? タグチさん」
と言うと、サツキは顔をぐっと私に近づけてきた。観光客たちがヒューヒューとはやしたて、マスターも悪ノリをしている。BAR FLATは階段を降りて店内に入ると、入り口に対してカウンターは奥へと長く続くL字になっている。奥の席に座った私とサツキが向かい合えば、それはキスをしているように見えるのだろう。
サツキの吐息を目の前で感じ、私は目をそらしてしまった。
私はサツキの肩のあたりを優しく押し返すと、サツキから柔らかい女性の香りがして、私の中の男をくすぐった。
「それをさせないようにするのが男の務めだと思います」
「そういうもんですかね。私まだ子供なので、少し窪んだ指の付け根しかわかりません」
と言うと、サツキはバーボンのボトルから自分で2杯目を注いだ。入店していくらも経っていないのに、入ってすぐのウェルカムドリンクをすぐに飲み干したサツキは、相当に酒豪かもしれない。
私は京都に来てから女性と一対一で飲むことは初めてだった。妻は酒の席を好まないので、今ではたまのデートも食事だけのことが多かった。
私はなんとなく自分の薬指の付け根を見たが、指輪跡のようなものはない気がした。彼女は何を見ていたのだろうか。私は言い知れない不安にかられた。
「それで、東京に戻ったらどうするんです?」
「あれっ、聞いてほしくないってはっきり言わないと京都の人って理解できないんでしたっけ? そっか、タグチさんは東京の人ですもんね」
私の出身はいつ話したのか曖昧だったが、おそらく前回の店で伝えたような気がした。告白をしたわけでもないのに、フラれたような気持ちになると、私は二度も彼女のことを聞いたことを恥ずかしく思った。マスターはなぜかニッと笑った。
私はサツキのことを落としにきたわけではないのだと、不貞ではないと自分に言い聞かせた。だから、彼女のことをしつこく聞く意味はなく、ただの世間話なのだと思った。しかし、なぜか自分の中の獣の男がそれを許さない。
「京都の人だって粘りを楽しむことはありますよ。大阪人でも納豆を好む人がいるようにね」
「つまり、タグチさんの今みせた粘りはお楽しみってことですね。じゃあ、そういうことにしておきましょう」
なんだかサツキに私の大義名分を守ってもらったような心地になったが、私は完全敗北したような気持ちになった。
「そう、だからここで勘定してまた烏丸のどっかの店で会うってのが江戸っ子ってもんです」
と言うと、マスターを呼び、この場所をツケにしてもらうことにした。
「いや、お客さん。それは困りますよ。いくらボウズさんの紹介だからって、つんつるてんで帰るっちゃ、いきません。姉さんも恥ずかしいでしょう? だから、ここは私が払いますんで、このボトル、今度は私におごってください。それでチャラ、いいでしょ?」
調子が良いのだか悪いのだか、私はやはりこの街には慣れないと思ったが、この街で食い逃げは逃げ切れないのもあるので、私はマスターの了見を承諾した。
「それと私、ボウズの弟でオンキョーっちゅうもんです。以後、お見知りおきを」
と言うと、マスターはイヒヒと下卑て笑った。なるほど、酒吞同志の店主はボウズ頭だからボウズなのだと思っていたが、スピーカーメーカーのBOSEで、こっちはONKYOなのだなと妙に納得してしまった。
「ここはここ、外は外ですぜ」
オンキョーの奇妙なアドバイスに首をかしげたが、私はサツキに小さく手を上げて店から出た。
一人でBAR FLATの階段を上がると、梅雨時ではあるが、日の長くなった烏丸は7時前でもまだ明るかった。
私はもう一度左手の薬指を見ると、やはりそこには何のくぼみもなかった。サツキは何を見ていたのだろう。
「ただいま!」
私は玄関に入る前に二度、薬指に指輪をはめたことを確認し、帰宅した。
帰宅すると、妻が私にいつものように強い抱擁をあびせてきた。
そして子供も私の膝下に抱きついて離れたのを確認すると、お土産の阿闍梨餅を妻に持たせた。喜んだ妻がもう一度私に抱きついた。そして、首のあたりですんすんと匂いをかいだ。
「ふうん、一見さんでお断りしなかったんやなあ。香水、金木犀かあ。季節外れやわ」
苛つきを遠回しに隠した彼女の態度に私はハッとして、自分のネクタイの匂いをかいだ。
「たしかに秋には早すぎるな」
私は次の出張は秋の頃だったなと思った。