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ドーピング犬

割引あり

ドーピング犬

九里宇ユミオ

 

 

私は別れた恋人の朝日マイのことを、幼馴染で腐れ縁の水坂リエに、環状八号線添いにある静かなファミレスの片隅で話していました。

店内は穏やかな雰囲気で、まわりの人々は私たちの存在に気づくことなく過ごしていました。私は別れた後の複雑な気持ちをリエに打ち明け、その中で自分の心情を整理しようとしていました。

しかし、話が進む最中、驚くべき出来事が待っていました。別れたばかりの朝日マイが、私たちの存在に気づくと怒りに満ちた目を私たちにひと目だけ浴びせて足早に店を飛び出してしまいました。

私は突然のことに言葉を失い唖然としましたが、マイの落とした何か書かれた紙切れで彼女の怒りの一端を感じ取りました。そして、納得と諦めの狭間で店を出る彼女を目で追っていました。

「何をしているの、追いかけて。」

立ち尽くし茫然自失となりかけていた私はリエの一喝で我に返り、マイのあとを追いかけることに決めました。

しかし、私の話を聞くより前に、マイは私の乗ってきた車に持っていたスペアキーで飛び込んで、旧東名高速道路の方角へと向かってしまいました。

マイの落とした紙切れは私が彼女と別れる時に預けた手紙でした。私は自ら招いた誤解に後悔を強くしました。そして彼女の中に、大きな傷をつけてしまったのだと思うと胸が収縮し痛むのを感じました。

最初は車を追いかけようとして走っていましたが、何ごとも諦めやすい私は、あの状況なら勘違いされても仕方ないかと自然と歩みを緩めていきました。

車が見えなくなると、私は道路脇に立ち尽くしてしまいました。

すると、一匹の野良犬が、私の側にやってきたのです。あることがきっかけで犬が苦手になってしまった私は、始めは犬から離れるようにして遠ざかりましたが、野良犬はマイの乗った車が見えなくなった方向と私を導いていました。

やがて私の足は野良犬に誘導されるまま歩速を再び速め、走り始めていました。野良犬は私に走るきっかけを与えてくれました。

野良犬と走りながら、過去の出来事が頭の中を駆け巡りました。呼吸が激しくなり頭がボーッとしてくると、生まれて初めてこんなに身体を動かしているかもしれないと思いました。

高速道路のアスファルトを照らすオレンジ色の常夜灯は私が速度を上げるほど繋がり、オレンジの川のようになって連なって見えました。

その光を見送りながら走るうちに、酸欠でぼんやりしてきていた私は、幼馴染の水坂リエや恋人だった朝日マイとの出会いを思い出していました。

「私が高校にあがった頃ね」

 

私はここまでの出来事を整理したくなりました。

「人間の言葉なんか、わかんないか。」

と言ったところで

「わん!」

野良犬が吠えました。続きを促されているような気がしました。

「独り言でもいいか。」

私は二人との出会いの続きを話し始めました。

「私が…、」

 

高校にあがった頃、私の世代はそれまで先端医療でのみ利用されていた筋増強薬のドーピングの一斉テストを受けることになりました。未成年者へのテストはドーピングの安全性を示す最終段階でした。

これまでも脳波を利用した文字入力(BMI)や、記憶の移植による延命など、様々な先端医療が民間導入されてきましたが、ドーピングは私たちにも理解しやすく医療の枠から出始めていて話題性があり、ワイドニュースでも注目されていました。

まだ成長期を迎えたばかりの私のクラスメイトたちは、ドーピングのテストに心を踊らせ、口々に憶測を広げて盛り上がっていました。

「ドーピングっておじいちゃんとかが力仕事を続けるために打つやつでしょー?」

「そうそう!でも最近は美容整形アイドルの○○も打っているって噂だよ!顔の筋肉に打てば誰でも可愛くなるみたい!」

私も好奇心が高い方でしたので、今までは高価で手に入らなかったドーピングが民間導入されることには興味がありました。

「まずはあの犬に打ってみよう」

好奇心はあるものの、自分に打つのは少し怖く感じていた私は、いつも家の近くの公園で寝ていたあの野良犬に打とうと心の中で思いました。あの犬はどこかの怠け者の記憶を移植されたとか、先端医療の犠牲になったのだとかやっかまれていたので何かをしても罪はないだろうと思いました。

担任の教師によるドーピングに関する説明が終わると、私たちはそれぞれ薄いカーテンで区切られただけの更衣室のような個室でドーピングを打つことになりました。

教師によれば、私たちに処方されるドーピングは本来の効果を薄めたもので、一時的に運動能力や健康効果を上げる程度のものでした。また、インシュリン注射やその他のホルモン注射と同じように自分で打つ事を想定しているため、ほぼ無痛で針も細いようでした。

そして私たちは試験注射をした後に3分待ち、副作用などが現れないかのアンケート用紙に記入して、そのままその日は下校することになっていました。

私の番が来ました。

私は個室に入るとドーピング薬を打ったふりをしてアンケート用紙の「呼吸」「意識障害」「発熱」など健康に関する変化について全て正常の「正」にチェックをつけていきました。

ドーピング薬の入った注射器はそのまま、学生服の裾にスライドさせ隠しました。周りにバレていないか左右のカーテンの人影を見ました。

右隣の人影が妙な動きをしていました。私と同じようにドーピング薬を隠しているような動きでした。個室から出てすぐにその正体を確認すると、その子のあとをつけ、校舎の門を出る辺りで肩を軽く叩きました。

同じクラスで席が隣の水坂リエでした。

私は実験の最中にリエの不正を目撃していたことと、自分も同じことをしたのだと白状しました。

そして、近くの公園の照明灯に繋がれていつも寝ている老犬にドーピング薬を打ってみようとリエに提案しました。

初めは驚いた様子のリエでしたが、彼女も好奇心が強いほうだったので、少し迷ってからその提案は受け入れられました。

校門での打ち合わせのあと、私たちは手をあげて別れたふりをしました。念の為リエとは別々のルートをとり老犬のいる公園で待ち合わせることにしました。

公園に到着すると、やはり照明灯に老犬は繋がれていました。老犬は自分の余生を悟っているかのように前に出した両腕にだらしなく顎首を乗せて寂しくこうべを垂れていました。

少し小走りで後からやってきたリエは、息を整えてから私に近づいてきて老犬を見ながら耳元で

「本当にやるの?」

と、確認をとってきました。

「もちろん。国が私たちに何を打とうとしたのか見なくっちゃね。」

「どっちが打つ?」

「どっちでもいいよ。でもどちらかは犬を押さえないとね。暴れるかもしれないし。」

じゃんけんで私がドーピング薬を打つことになりました。リエは犬を少し撫でてから、心を決めた様子で犬を押さえました。犬は押さえる必要もなく無抵抗でした。

「ごめんね。」

リエは目に小粒の涙を貯めたので私は

「科学とは、その現在たると過去たるとを問わず、可能なる事物の観察である。」

と、歴史上の名言をリエに伝えました。

「なにそれ。」

すこしだけリエの口元は緩んで微笑みを作りました。私はリエの良心の呵責が静まったのを確認し、リエからドーピング薬を受け取りました。

そして、老犬のお尻のあたりに注射器の針を差し、フランジャー(押し子)を絞っていくと、老犬は「きゃん」と一度だけ小さく声を出しました。

老犬を観察していると、老犬の目にはすぐさま活気が戻り、痩せ細っていた身体にはみるみる筋肉が盛り上がっていき、すぐに3歳くらいの元気な犬になりました。科学の素晴らしさに私とリエは、思わず手を握りあって喜び感動を共有しました。

しかしそれも束の間、犬の筋肉の隆起は止まりませんでした。犬も膨張することにわけも分からず戸惑いオロオロするばかりでした。はじめは好奇心でドーピング薬を注射した私たちも段々と不安な気持ちになり、急いで公園を立ち去りました。数秒ほどたったあと背後の方から風船を割ったような音が聞こえました。

私とリエは同じ秘密を共有することになりました。その後の私たちはこの話題について決して口にしませんでしたが、仲は急速に深まりました。そして私たちは示し合わせる必要もなくドーピング薬は使わないことにしました。

それがリエとの出会いでしたが、ドーピング薬と、私の犬への苦手意識も始まった瞬間でした。

 

それからのドーピング薬の発展は凄まじい速さでした。金額もこなれてきたこともあり、何人かの生徒は芸能人のように整った顔にするためや、アスリートのような身体の再現に使っているようでした。学校も健康的な見た目の生徒の通う学校は、入学希望者の増加を期待してドーピングの使用を推奨していました。

私は中学生の頃を思い出しました。かつて「健全な肉体には健全な精神が宿る。健全な精神は健全な世界を作る」と言っていた体育の教師の口癖は、ドーピングによって実行されました。

きっと健全な肉体は自然な運動で手に入れた身体のことのはずだろうと私は思いましたが、同級生のドーピングでデザインされて仕上がった身体を見ると、それは体育の教師の健全な肉体よりも健全かつ理想的で何の不具合もないように見えました。

果たしてこれが体育の教師の目指した健全な世界なのか疑問に思いましたが、私の目指す理想的な世界は他にありました。

高校最後の試験の試験勉強をしていると、水坂リエからチャットが届きました。

「今月のランキングはね~!3位、不滅の刃!2位、進撃の魚人!1位は吾輩の名は!かな!」

私とリエはアニメにぞっこんでした。近頃は記憶移植を利用した人体入れ替わりものが流行っていました。

記憶を刀に移植し、永遠の時を生きる不滅の刃。サメに記憶を移植し、サメに家族を食べられた主人公がサメに報復する進撃の魚人。医療ミスで猫に記憶を移植され、猫としてのセカンドライフを始める吾輩の名は。

どれも明らかな仮想だと分かっていましたが、そこには真っ直ぐな物語の道筋があり、完成された世界に私たちの理想がありました。

SNSに陶酔し、より自分を良く見せようと頑張るクラスメイトにうんざりしていた私は、創作物のアニメにこそ居場所を感じていました。水坂リエも元々動画制作が好きだったことがあり、私とリエはアニメで共通認識を高めていました。

「試験前にランキングとか、なかなかやりますね。ちなみに私は」

チャットを返すと、水坂リエからすぐにアニメキャラでのツッコミがスタンプで入りました。

私はそのキャラクターの作品の高校生活の充実ぶりを思うと、自分の高校三年間を振り返りました。アニメ、動画制作、学校の勉強。それぐらいでした。そこにはアニメで描かれるような夢もなければ成長も冒険もありませんでした。

部活に入っていなかった私は、授業が終わるとすぐに自宅に帰って美少女アニメを見たり、水坂リエの動画制作を手伝う日々でした。それでも時間が余るので授業の復習をしていました。

その甲斐もあり、優秀成績者用の大学の推薦枠を確定させていました。このときばかりは、クラスでは幽霊のような存在だった私に担任の教師や、親は賞賛の言葉を与えてくれました。高校生活のハイライトといえばそれぐらいのものでしたが、普段は彼らが私に何の興味もないことを知っていたのでその賛辞は表面的で虚しく思えました。

しかし、水坂リエは違いました。辞退を考えているとリエに相談をすると「可能性は潰さないに越したことはないよ」とアドバイスをしてくれました。私は本気で推薦を目指している他の人に配慮して推薦校の中でも一番人気のなさそうな大学の、その中でも不人気そうな文学部の推薦を受けることにしました。

最後の試験が終わり卒業式も済むと、卒業してもお互いのことが分かるようにと、私とリエはそれぞれの動画チャンネルを開設しました。リエは、長編の映画作品を撮ることにしました。

私はリエとつけていたアニメランキングの主題歌をギターで弾いて投稿することにしました。普段からリエから彼女の動画のBGMを頼まれていたので、ギターを弾くのは自然なことでした。

動画はそれなりに人気が出ました。しかし、視聴者が注目したのは私が学生のようであるという点だけでした。「学生のわりにうまい」「手がかわいい」「オッサン乙ww」視聴者は私についての憶測を様々に飛ばし動画のコメント欄は盛り上がりました。最初のうちは私たちだけにわかる名前で、コメントをつけていたリエも、動画の人気が出てくるに従ってコメントが段々減っていきました。

私の視聴者の私のギターに関するコメントは、一つもありませんでしたが、注目されることは私の承認欲求を満たしていきました。

次第に私の見た目ではなく私自身の考えを評価して欲しいと思い、コピー曲を発表する合間に、オリジナルの曲の動画も投稿しましたが、こちらは再生回数が1桁でした。オリジナル曲が評価されないことに私の承認欲求は再び不満を抱えました。

このようなことがある度に私の動画は、注目を集めるために内容が加熱していきました。コスプレしてアニメの曲を弾いたものや、肌の露出の多い動画だけを投稿しました。これらは非常に評判がよく再生数も回りました。しかし、露出のないものやオリジナル曲の再生数の少なさに虚しくなり私は動画の投稿をやめていました。

そうして過ごしているうちに私と水坂リエは疎遠になっていきました。

 

「〜であるからして、伝統ある我が校はこれからのこの国を主導する人材を〜、」
大学の入学式の初日のことでした。広い講堂に集められた新入生たちは皆、壇上の校長の方向へ身体を向け行儀よく着席していました。これが流行りの映画であれば少しは楽しかったのですが、壇上は少しオレンジがかった電球色の白熱灯のスポットライトに照らされ、前髪の後退した広い額に汗を浮かべた人物がいるのみでした。

厳粛な式と、ライトを反射する校長の頭皮のギャップに、最初はユーモアを感じていましたが、それも慣れてくると退屈を感じて私は体調不良ということにして入学式を抜け出しました。

すぐに帰るのもなんだか勿体ない気がしたので講堂の横に適当なカフェテリアを見つけ、そこで休憩をとることにしました。

カフェテリアは入り口すぐの食券機から食券を購入し、食券機に並列して並ぶ大きなオープンキッチンのカウンターで注文されたものを受け取る形式をとっていました。

カフェテリアとは名ばかりで、店内を見渡すと白いプラ天板を携えた机が整列しているだけでした。

そこには私の知るオシャレなカフェのような工夫はありませんでした。きっと、かつて食堂であったものを看板だけすげかえたのだと思いました。

私は紅茶のボタンを券売機で探しました。紅茶は三種類から選ぶことができ、紅茶を選ぶ行動に、大人になった気がしました。しかし、どれを見ても特徴がわからなかったので、「日替わり」の紅茶を選びました。紅茶を待っている間、空いている席を探して目線をふらふらと泳がせていると、一人の少女を発見しました。

「はい、日替わり。カモミールブレンドのホットね。」

そのオシャレな響きの紅茶とは正反対の、大衆食堂に居そうなおばさんが不機嫌そうにトンと音を立て紅茶を出しました。

厨房の様子が見えるオープンキッチンのカウンターは、紅茶が乱暴に置かれたせいで紅茶が少し溢れ、ティートレーにも茶色の水溜りを作っていました。

私は少しムッとしましたが、こんなことでいちいち怒ったりしないのが大人だろうと思い、文句を言いかけた口を一文字に閉じました。

短く礼だけを伝えると、紅茶を片手に持ったまま、空席を探すふりをしながら、さっき見つけた少女を探しました。

彼女はカフェテリアの中央あたりの席で、何人かの女子学生と生クリームを乗せたカフェラテを飲んでいました。彼女の二つ後ろの四人がけの机に空席を見つけた私は出来立てで熱い紅茶を溢さないように慎重に机に紅茶を置いて着席しました。

私は紅茶をすすりながら、彼女を観察しました。

着慣れていないファッションと流行りのワンレンの髪型が不釣り合いになっており、ひどく芋っぽく見えました。きっと大学デビューをしたくて流行りを付け焼き刃に取り入れたのでしょう。

それが逆に私の目を止めるきっかけになったのだと思いました。

彼女の格好は当時流行っていた海外セレブのオフショット風のファッションでした。ジャストサイズのバンドTシャツにスキニージーンズを合わせたもので、体型がよく目立つそのファッションのサイズ感は難しく、彼女のような一般的なアジア体型にはなかなか似合いませんでした。

しかし、ぴたりとしたサイズのジーンズは、座っている姿勢であるにも関わらず、彼女の筋肉質でカモシカのように引き締まった太ももを強調していました。

ちょうど良いバンドTシャツが無かったのか、海外アニメのキャラクターもののTシャツでした。細い上半身は、脚に対して肩幅が狭く、それでも裾の余ったTシャツは、腰回りにいくらの脂肪ものっていないことを私に物語っていました。

私は同級生のドーピングで不自然に整えられた身体を思い出すと、彼女の体型はとても自然に見えました。Tシャツの首元から、日焼けの境目が少し見えて、きっと陸上競技か何かのスポーツを長くやっていたのだろうと思いました。

典型的な美少女というほどではないけれど、すっと通った鼻筋とアスリート選手のように張りのある輪郭、ほんのりあどけなさの残る目元と、太すぎず自然に鍛えられた脚に魅力を感じ私は心を奪われてしまいました。

「熱っ、」

彼女に夢中になりながら紅茶を何となしにすすったので紅茶がまだ熱いことを忘れており、熱さにびっくりして私は紅茶を自分の白いシャツの裾あたりに溢してしまいました。

慌ててハンカチで紅茶が染みにならないように拭いていると私は股間のあたりに紅茶とは違う別の熱を持っていることに気付きました。それは今まで感じたことのない熱量で、そこを起点として全身が熱くなってきているようでした。私は一目惚れをしていることに気づきました。

「マイ〜!学校終わったら新宿の…、」

少女はマイと呼ばれていることが彼女たちの会話から聞き取れました。彼女は式を抜け出し、近くにいた人を誘って遊びに行く算段をしているところでした。

「意外とおてんばなのかもしれない」

と彼女の人となりを想像しました。私の身体は耳まですっかり熱くなっていました。

 

私は「マイ」と呼ばれる彼女と知り合うきっかけを探しました。

しかし、入学式の日に立ち寄ったカフェテリアで見かける以外は彼女を見つけられませんでした。せめて授業が同じならと思いましたが、どの授業にも彼女はいなかったため同じ授業がないと思いました。

ところがある日、朝が苦手な私が出席をしばらく逃していた第一限の現代芸術の授業に間に合うことがありました。すこし眠気を抑えながら、空席を探していると、たわわに実った赤い脚が見えました。

それはマイの脚でした。モノトーンのワンピースコーデに赤いタイツを履いていて、その差し色が強烈に私を揺さぶりました。

私は慌ててスマホにマイと会った時間をメモしようと目を落とすと、地面に赤い糸が落ちていることに気づきました。

赤い糸で思いつき再びマイの脚を見ました。彼女のくるぶしから膝裏に向かって薄く肌が透け、マイの健康的なひかがみを細く露出させていました。

赤のタイツが伝線しているのだと分かりました。

私は彼女との間に…強い運命を感じました。

その日は彼女をこっそりつけてみることにしました。彼女は授業を終えると経済学部の学舎に移動し始めました。私は文学部だったのでほとんどの授業で校舎が違い、彼女と授業がほとんど被らないのはそのせいなのだとわかりました。そのあとはクラスの友人と学校周辺のカフェを開拓しにいき次の単元へと向かうことがわかりました。

何度かマイのあとを追っているとマイのことが分かってきました。

マイは学級の中心になるようなタイプではありませんでしたが、活発で明るい性格でいつも周りに人を集めていました。たまに少し地味なタイプの上級生からデートに誘われることもあるようでした。しかし角が立たないようにするために笑顔で断っているようにみえました。私とマイはきっと正反対の性格だと思いました。

なぜもっとはやく早起きをしなかったのだろう、カフェというものに興味を持たなかったのだろうと激しく後悔しましたが、足りない単位数の調整になんとなく選択した現代芸術の授業と運命のイタズラに感謝しました。

この時ばかりは西洋神話に登場するフォルトナだかナントカの神というものの存在を信じました。それからは週に一度の早起きが楽しみで、前日は早めに寝るなどして絶対にその授業を逃さなくなり、ときには彼女が入るかもしれないカフェに先回りすることもありました。

6月の半ばに入るとマイはベースケースを背負って現代芸術の授業に出席するようになりました。

現代芸術のあとは、マイはいつも窓際で友人と雑談をしていたので、私は天気の確認をするふりをして、窓に近づき会話を聞いてみました。

耳をそばだててみると、マイは他の新入生より遅れて軽音楽部サークルに入ったようでした。きっと彼女を取り巻く友人の多くから様々な部活への勧誘があり決断に時間がかかったのかもしれないと想像しました。

その日からマイは現代芸術の授業にもその後のどこの授業にも顔を出さなくなりました。

代わりに大学校内の4つある食堂のうち一番離れにある食堂のさらに裏の喫煙所で上級生の男性たちと「NM」と書かれた有名なブラックコーヒーの缶を片手にタバコを吸っているのを見かけるようになりました。私はマイの環境と生活の変化に少し寂しさを覚えつつも、彼女のカモシカのような足は相変わらず充実していてピッタリとしたジーンズを膨らませていることに安心していました。

タバコを吸い終えたマイはタバコを喫煙缶に押しやると、その手でスッと右の髪をかきあげました。入学式に見たマイの髪はあの時のように肩の長さに揃えられワンレンカットでしたが、黒い髪の内側には明るい栗色のインナーレイヤーが入っていました。

 

やがて初めての大型試験が終わると大学は長期の休みに入りました。

私はどの部活にも所属していなかったし、新しい友人もできたわけではなかったので、水坂リエにSNSで連絡をとりました。

大学の長期休みを私は一人で過ごせる自信がとてもありませんでした。

卒業してからリエとすっかり疎遠になっていましたが、高校で深めた私たちの仲ならこれぐらいの時間なんて、たいしたことはないだろうと自分を鼓舞しました。少ししてリエから返事が来ました。

「ごめん、今月は会えないかも。映画サークルに入ったんだけど撮影合宿が8月まであるの。」

意外でした。彼女も私もあまり周りに合わせるようなことはしない方でした。私とリエはあの公園での秘密を共有していたので、他の人とは違う特別で深い結び付きをもっているという確信に繋がっていました。そんなリエが私以外の人間関係を深めているのかと思い、様々な質問が浮かんでは消え、SNSの返事に時間がかかりました。

結局、

「おっけー」
    私は少し裏切られた気持ちになりながらも、彼女の関心が私から他に移ったように思えて私は初めて社会との繋がりが希薄になったように思えました。

 

大学に入っても結局はリエが身近にいなくなっただけで暇つぶしに授業を受け、帰宅すると授業の復習をしながらエンタメに時間を浪費する生活パターンは変わっていませんでした。

暇つぶしの勉強でこの大学に入り、マイを知ることができたことだけは功績でしたが、水坂リエの既読がつかない今、いつの間にか私は孤独の檻に閉じこもっていることに気づきました。

マイもリエのように長期合宿というものに行っているのだろうか。そして、あの喫煙所にいた上級生と夏の日の一時を繰り広げているのだろうか。

 

そんなことを考えながら自室で私は、タブレットにスクリーンショットしたノートを整理すると同時に、脇に並べたスマホの青春アニメに目を移しました。

ちょうど、夕日の浜辺で刹那げに頬を紅く染めているヒロインの狭い肩を主人公が優しく抱き寄せていました。マイやリエも優しく抱き寄せられるのでしょうか。

私の知る青春はアニメの中にしかなく、大概はこのアニメのようなありきたりなワンシーンがピークで、その後の二人の関係は描かれませんでした。

しかし、現実には青春のピークでエンドロールが入ることも感動的な音楽が流れることもありません。そのときの私にはエンドロールのないこの世界で、普通の学生がどのように青春を過ごすものなのか全く想像がつきませんでした。青春のピークを迎えたのちの、人間関係はどうなるのか。その後の別れは訪れるのか。

思いつくような不幸はアニメの中では省略され、視聴者の望む理想的な現実で彼らの人生は終幕します。

私はいつも、青春アニメを見ると現実の空虚さに納得をして、これからずっと続くであろう無為な人生を悟っていました。しかし、私とは無縁だった実際の青春の気配を目の当たりにすると、私の現実はフィクションじみていました。リエにもマイにも、その他大勢にもおそらく等しく訪れる出会いは私にはなく、彼らにとって私の現実の方が現実感がないのだろうと思いました。そして、何も展開の無い私の人生はアニメにすらすることができない「無」そのものなのだと思いました。

せめて私の現実にオープニングテーマ曲や、青春の香りもあれば良かったのですがそれは当然ありませんでした。私の周りの世界はきっとSNSに跋扈する化粧めいた世界こそが現実なのです。

リエと会わない時はアニメやエンタメの世界に没頭するだけでよかったのに、急に訪れた社会とのズレを感じ取ったことで、私の居る現実はいつの間にか質量を失っていました。

「これじゃあいつらと同じだ。」

私は一人ごちることで平生を取り戻そうとしました。

私にとって化粧めいた世界の住人も現実に生きていないように感じていました。

ところが、身近な他者との青春の比較を感じ取ったことで、私はSNSのインフルエンサーに憧れて現実の肉体をいじることに没頭するクラスメイトたちとの私の空虚さの違いを見つけられなくなりました。

私から見た彼らは演出をすることに一生懸命で主体がなく、虚しく見えていました。

過去のトラウマもありましたが、彼らとの明確な差をつけるためにドーピングしないことで、わたしは現実と理想の分別のつく大人になった気でいました。

しかし、SNSにドーピングして得た身体を投稿して、現実との繋がりを得ているクラスメイトのほうが、まだ現実に即しており、私よりマシだとすら思い始めました。わたしはただアニメに没頭し、現実の世界の繋がりはなく、彼らの現実には生きていませんでした。

私は、アニメのように壁にドンと迫ってくるようなイケメンは居ないだろうし、ちょっと語調は強いんだけど自分の前だけでは弱みを見せるようなイケメンも居ることはわかっていました。分かっているからこそ、過度な期待をせず粛々と生きてきました。

私が見たマイを囲んでいた上級生はもちろん、イケメンというタイプではなく、これといった特徴もありませんでした。

楽器を少しだけできるということだけが取り柄で、プロを目指しているわけでもないでしょう。きっと小手先だって中途半端な連中なのだと勝手に決めつけて、私は彼らになんの魅力も見いだせていませんでした。私の動画は人気があったし、彼らよりもマイにとって少しだけ魅力的に見える位置にいると思いました。

上辺だけの上級生たちはすぐに中身が見透かされて、マイはきっと魅力を感じないであろうと理論を強化して平静を整えてきました。

私はアニメの再生のとまった黒い画面の液晶を見ていました。そこには無表情に画面を覗く私が写っていました。この世の深淵を覗いてしまった気持ちがして、おぞましい気持ちになった私はすぐに目線をそらしました。

窓の外を遠く見ると、私の人間関係を振り返りました。

私には自分から離れてしまったリエと、手の届かないところに居るマイだけだと思いました。

唐突にやってきた大学の夏期休暇は自室をやけに広く感じさせ、私の孤独だけを具象化させました。この孤独感が私をパニックに陥れたのだと考えると心が更に整理されていきました。

そして、気持ちが落ち着いた頃に大事なことに気づきました。

私はマイと会話をしたことがありませんでした。
     

私は手持ち無沙汰になっていました。

「もう若くないし今度はギター聞いてもらえるかな」

心の中でつぶやくと、部屋の隅でホコリをかぶっていたGibsonと書かれたギターに何となしに目をやりました。

ギターの細長い首の指板に打ち込まれた音域を左右する鋲のフレットにはすこし手垢も溜まっていました。

私は徐ろにギターを右手で持ち上げると、私の細い右太ももにぴったりと収まるラウンドカットのギターのボトムを当てました。ギターを乗せると太ももの上の脂肪はギターの重さにおされて、私の理想とするふくらみをもちました。少しだけ気分が良くなりました。

左手でギターの弦の張り具合を決めるネジの「ペグ」を巻きながらなんとなく調律を施し、ロックバンドのDeep PurpleのFireにインスパイアされた私のオリジナル曲の冒頭のイントロを弾きました。

左から5番目のフレットを、6本あるギターの弦の上から3番目から5番目の弦だけをセーハと呼ばれる技術を使い、薬指でしっかり挟み開放弦を交えた和音のCコードを作り、そのまま右へ2フレット分移動し、開放弦を交えたDコードへと移行する。これを繰り返すだけの簡単なイントロでした。セーハの練習のために考えたイントロでしたが調律の確認には丁度よくギターを手に持つといつもこれを弾いていました。

昔、動画サイトに投稿していた懐かしのアニメソングを一通り弾き終わると部屋のデジタル時計は8:00過ぎを示していました。

私はもう少しだけ弾いたら寝ようと思いましたがすぐに空が白けてきたので3時と8時を見間違えていたのだと気づきました。マイを囲んでいた上級生はどれくらいギターを弾くのだろうか。

部屋に薄く差し込む朝日に目をすぼめながら、私はマイの上級生に心の中で毒づく言葉と呪いに似た感情を持っていることにハッとし、上級生に小さな対抗心を燃やしているのだと気付きました。

 

その日はもう日が落ちて薄暗くなっていましたが、時刻はまだ夕方で早めの冬の訪れを感じる大学二年の秋でした。

私は完璧主義なところがあり、マイを囲む上級生に嫉妬心を燃やした大学一年生の夏から一年間をギターの練習に明け暮れていました。

「軽音楽部の誰よりもすごいギター弾きとなり、絶対にマイからバンドに誘ってもらう」

そう決めていました。そのため密かに軽音楽部のライブに通い、実力を確かめながら実力に確信が持てるまで猛特訓しました。

水坂リエとの繋がりになっていた動画サイトへの投稿も再開しました。

今度は流行りの曲ではなく超技巧派のものをアップロードし、突如ネットに出現した謎のすご腕ギタリストK・K(イニシャルをとってつけた私の動画名)としても有名になりました。

見た目ではなく、ギターのテクニックで評価された私は「これならマイに認めてもらえる」と確信し、大学の正面玄関の近くにある薄暗い建物を訪ねていました。

建物の中は長い廊下が続いていて、右手脇には扉が等間隔に並んでいました。壁はコンクリートが打ちっぱなしで、ひんやりとしていて管理が甘いのか青白い照明が点滅していました。長い廊下を進み一番奥の目当ての扉の前につきました。

ノックをすると鉄扉だったため思ったよりも大きな音が出てしまい思わず

「ヒッ。」

と声をあげました。

しばらく待ちましたが反応はなく、諦めて帰ろうと振り返ると何かを踏んづけて尻もちをついてしまいました。

「あははは!おっかしい!新入生~?どうしたのー?大丈夫~?」

カラカラと木の棒が闇に転がっていくと、聞き慣れた声の主は棒を拾いあげ、隣にいる誰かに渡しました。

「もう~、ドラムスティック転がしとくと危ないって言ったでしょ~!」

それから声の主は長さが短めのタータンチェックのスカートの端を揃えてから私の方にしゃがみこみ手を差し出して

「ほんとに大丈夫?」と私にだけ聞こえる声で尋ねてきました。青白い照明が点滅するといつもは遠くから眺めていただけのマイの顔がすぐ近くにありました。

転んでしまったことに恥ずかしさを押さえきれず、

私はすぐに

「…とい、いいいます。ギ、ギタァ!志望です!腕はかなりいいと思います!よろしくおねがいします!」

と何度も準備したセリフを告げましたが、久しぶりに声を出したこともあり最初はうまく声が出ず、パート名も声が裏返ってしまいました。

意表をつかれたマイは一瞬、驚いた顔を見せましたが大笑いして出た涙を、タイトで黒のレースの入ったシャツの袖でぬぐってから、私の手をとって私を立たせました。芸術の授業で見た時よりもコロコロと表情の変わる人でした。

「私は朝日マイ!ベース担当だけど、まずは部長に話してね~!」

と親指でクイクイと後ろの方を指差しました。

本物だ。本物の朝日マイと話していると感激している私はマイにみとれました。奥の方でドラムとか自己紹介している影の薄い部長の方など全く気に止まりませんでした。

明滅する照明の中で、マイの笑顔はストロボを焚かれる最近流行りのアイドルのように見えました。そしてマイの吐く息からは少しだけタバコの香りがしていました。

マイとの初めての会話でした。私はマイたちに挨拶をして帰宅しました。

 

私が軽音学部に入部した日にドラムスティックですっ転んだ私の話は非常にキャッチーだったようでした。流行好きの軽音楽部の連中の掴みはよく、私の噂はマイを通じてすぐに広まりました。

マイは二年生になると軽音楽部の中心的な人物になっており、いまはブリティッシュロックに熱中しているようでした。

本来、マイによって有名動画配信者K・Kだということもバレてしまい、入部時に行われる実力考査は形式的なものとなりました。それよりもK・Kだということで私は部活全員の注目の的となりました。当然、私の気にしていた実力は誰よりも頭を抜けていました。

二ヶ月後の年に一度開催される冬の音楽祭のギターにも、演奏をする前に推薦されました。音楽祭は各パート、軽音楽部の実力メンバーで構成されていました。

「すごい!新入生だと思ったけどタメだったんだね!」

部員全員の前で行われる実力試験を終え、ギターを下ろすと、目をキラキラと輝かせてマイは駆け寄ってきて、私の手をとりはしゃぎました。私は照れ隠しで自分の頭をかこうとしました。

「えー、そこ撫でろって~?仕方ないな~!よ~しよしよし!」

マイは何を勘違いしたのか大型犬を撫でるようにワシャワシャと私の髪を撫で回しました。

「や、やめてください。」

本当はこの時間がずっと続いてほしかったのですが、慣れない激しいスキンシップに反射的にマイの手を払いそうになりました。しかしすぐに払ってしまうとマイのスキンシップがなくなるような気がしてマイの手を優しくほどきました。

「ちょっとからかっただけなのに、かわいい~。」

マイは舌を出して小悪魔的に笑うと、後ろの腰に手を結んでピョコピョコと駆け出し、長身で長い髪を肩までたらした上級生の後ろに隠れました。美少女は本当に居たと私は目の前のマイにすっかり心を魅了されていました。

「…さん、加藤さん!」私はマイに夢中で、手前にいた上級生が私に声をかけていると気づきませんでした。

「加藤さん、今日から俺と同じバンドだからよろしくね。」

マイと同じタバコの臭いを漂わせた長身長髪の上級生は鉢谷といい、部が始まって以来一番の実力のベース担当でした。

「すごいじゃん!出会った日の名乗りは伊達じゃなかったね~!」

私は大勢の人に注目に慣れていなかったし、上級生の鉢谷の挨拶を邪険にすることもできませんでした。

怪訝な顔になりかけるのを押さえながら

「まあ、はい。」

とマイの居る手前どっちつかずになりながら、ぶっきらぼうに答えてしまいました。

入部して分かったのですが、このときのマイの生活は昼頃やってきて部長や鉢谷とタバコを吸うか、放課後になるとベースを入れるはずの黒いリュックから白いラベルのスコッチを取り出して消費するばかりになっていました。

部ではベースを披露することはなく、ライブを盛り上げる担当になっていました。

私の大きな勘違いは軽音楽部が人気ではなく実力でバンドを決めていたことでした。そして誤算は練習をしすぎたことでした。

マイは私を指名する実力がなく、マイもまた誰ともバンドをやろうとはしませんでした。

 

入部して一年が過ぎようとしていました。

マイと私は結局同じバンドになることはありませんでした。しかし、マイはいつも軽音楽部の話題の中心にいる私に強烈に興味を惹かれ、私にぐいぐいと近寄ってきました 。

「私、何でも一番人気があるものが大好きなんだ。」

秋のライブが終わった後の打ち上げでマイは私の隣にやってきて、耳元にささやきました。

「加藤さん入部して一年間ずっと実力No.1だったよね。ほんとにすごい。」

宴会席のテーブルの下で、マイは私の手の上に手を重ねました。

「あ、あの、朝日さ・・、」

「マイでいいよ。」

マイは耳元から顔を離して、いつもの角の立たない笑顔を作って言いました。あの笑顔が私に向けられたことで私は手に汗が流れたことを感じました。そして私の手のひらの汗を確かめるように私の指の間に手を絡めてきました。

「それより鉢谷から聞いたんだけどさ。加藤さん私のことずっとつけてきてたんだってね。」

「えっと。」

愛の告白をされると思っていた私は意表をつかれました。宴会席の賑やかさの中でマイの声だけが私の鼓膜を震わせていました。

私は鉢谷に告発されたことによりマイから失望されたと思い、血の気が失せていきました。また、ストーキングのようなことをしていたという事実に気が付き、目の前が真っ暗になっていきました。数々の冴えない男たちを断ったあの笑顔で話すマイの表情が今、私に向けられていることに恐怖しました。

「びっくりしちゃったけど、いま一番注目されている人に注目されてたって知ったとき、」

そこまで言ってから、マイは持参した「NM」とラベルのついた缶ジュースを机の上のジョッキに注ぎました。

一呼吸しました。私は断頭台に首をもたげている心地でいました。野良犬にしたことへの罰が当たったのだと感じました。

マイは呼吸を整えてから、また耳元に唇を寄せてきました。

「加藤さんが私のこと注目してるの、嬉しかったんだよね。」

私は私の屈折した想いを受け入れられていたことに戸惑いました。それとは逆に顔が紅潮していくのを感じました。困惑と高揚で、私の気持ちは急上昇と急降下を繰り返していました。

「あの、そのどういう意味で、」

私が言い終わる前にマイは手に持ったジュースの口を私の口に当てました。

(間接キスだ)

恋愛経験の無かった私はトントン拍子に進むマイとの距離感に動悸がどんどん加速するのを感じました。相容れない想いをを無理やりに混ぜこんだ気持ちはそれだけで私をヘベレケ状態へ誘いました。

「ごめんね、遅くなって。でもほら、女の子同士だし色々な目もあるよね。飲み会終わったら駅の裏のバーガー屋にいてね。」

マイは笑顔のまま、喫煙所に居る鉢谷の方へウィンクをすると彼らの元へ向かいました。

私はマイが離れてから、激しく喉が渇いていることに気付きました。そして、マイの飲んでいたジュースを一気に飲み干しました。

ジュースのジョッキの中にはマイの残したタバコの香りが残っていました。

そして、ジョッキの脇にはマイの置き忘れたタバコのパッケージがあり、パッケージにはやせ細った人間のイラストが書かれていました。

 

その帰り道。高校のときに水坂リエとしたように、ターミナル駅で他の部員を巻いて、私はホットコーヒーだけ注文すると、バーガー屋の二階のカウンター席につきました。隣の席に上着を置いてマイの席を確保しました。

「おまたせ。」

ややあってからマイが来ました。

「いま一番注目されている加藤さん。」

マイは含みを持たして私に声をかけました。それからマイからの申し出で交際する運びになりました。

「軽音楽部の誰よりもすごいギター弾きとなり、マイからバンドに誘ってもらう」という思いはマイと深い仲になるための手段でしたが、思わぬ形で成就されました。

人生で初めて努力が実ったことに私は歓喜しました。

終電を乗り過ごした私たちは、どこへ行くわけでもなく歩いていました。

歩きながら、マイは私のニックネームを考えてくれました。

「これから付き合うんだからもっと、親しい呼び方で呼びたいな。。イニシャルがK.K.だからケイかな!」

幼馴染の水坂リエからは名前で呼ばれていましたがマイがつけてくれたニックネームは私のなかで特別なものになり、マイとの結びつきを強く感じました。

「ケイ、よろしくね。」

相変わらずあどけなさの残る目元が細くなると、私の心は解きほぐされる感覚がありました。

「マイさんも、よ、よろしくおねがいし、します。」

私は口ごもりながら何とか返事をしましたが

「えー、ヤダー!」

マイはクスクス笑いながら私をちょんと小突きました。

「だって一年生のときから私のことずっと鉢谷先輩たちとタバコ吸ってるときや、トイレにいるときまでつけ回してたの黙ってあげてたんだよ。それを白々しく初対面のように振る舞ったのは誰だっけ~?」

「ま、まさか気づいていると思わなくて、」

「私は気づいてなかったけどね~。気にしてないことにしてたけど、鉢谷先輩に相談しちゃおっかな~。」

私は鉢谷との同盟を組むべきだと焦燥感に駆られました。

「ど、どうすれば。」

相変わらず私をバカにした様子でマイは笑っていましたが指を一本たてて私に言いました。

「マイって呼んで。」

マイは子供っぽいイタズラな笑顔で私に伝えました。私はリエ以来の深い関係に困惑しながら承諾しました。

「約束ね!」

「わ、私も約束!お願いしたいです!」

私は気になっていたことを一つお願いすることにしました。

「タバコ、やめてほしいです。」

私は歩きながら、マイの足元を見ながらお願いしました。

そして、過去のドーピングのトラウマと、タバコの不安を伝えました。

ドーピングを利用して肉体改造をしすぎているのも苦手でしたが、同じくらいマイの身体がタバコによって蝕まれることが不安でした。街頭に照らされるマイの太ももは今もきれいに膨らんでいましたが、長い目で見たときにそれが損なわれるかもしれないと思うと私はタバコをやめてほしくて仕方なくなっていました。

マイは私のトラウマと不安を真剣に聞いてくれました。

「教えてくれてありがとうね。じゃあ!一つだけ安心させてあげると同時に、私のとっておきの秘密教えてあげる。」

と真面目な顔からスッと表情を変え、虹彩をきらりと光らせてから、手をポケットに入れ、私にいつも彼女がタバコを吸引するために使っている機械を載せました。

「これ、吸引マシン、」と言いました。

私はマイがいつもしている行為から、それが吸引する以上に何の意味があるのか分かりませんでした。

「そして、これを吸うの、」と取り出したのはいつものタバコでした。

私はマイがただ丁寧にタバコの吸引機とタバコを紹介しているだけに思いました。

それからもう一つ、マッチ箱のようなものを取り出し、そこから爪楊枝サイズで筒形の何かを一つ出しました。

「これはNM社の電子ドラッグ、」とマイは私の耳元に囁きました。

「これを真ん中に差す。ジョイントって呼んでる。」

最初に取り出したタバコは中央が空洞になっており、ちょうど爪楊枝くらいの直径の穴が空いていました。マイはそこへ先ほど取り出した筒形の電子ドラッグを差し込みました。

マイはベースが上達せず軽音楽部についていけず悩んでいたところを鉢谷たちから教えてもらったのだと言いました。私がタバコだと思っていたのはドラッグでした。爪楊枝ほどの細さのそれは吸引後は燃え尽き後も残らず、医療に使われる成分で構成されているので万が一見つかっても精神治療に使っていると説明できるのだということでした。

「一本やってみる?これは注射もしないし、辛いことがあっても、とーーっても元気になるよ~!」

マイの高すぎるハイテンションはこの電子ドラッグによるものでした。

私は一瞬だけ、好奇心によって心が揺れましたが、電子ドラッグの安全性やメリットを嬉しそうに語るマイの姿を、ドーピングを施した肉体労働者が「これで疲れなくなった」と目を充血させて輝かせる姿に重ね始めていました。次第にドーピングのような恐怖を感じ、静かに断りました。

「えー、めっちゃ高いんだけどなー。すっごいたくさん夜のアルバイトとかしてやっと一本買えるのになー。もったいないなー。」

わざと私の関心を誘いながらマイはぷくっとほほを膨らませました。しかしそれはマイの社交辞令というかいつもの道化であり私のトラウマを理解したマイはそれ以上、勧めませんでした。

「だから私の身体は大丈夫、安心して。」

マイが私を追い越してから振り返ると、いつの間にか登ってきていた朝陽を背中に受け、マイの表情は暗く光っていました。

 

「ねえ!ねえったら!」

春の卒業ライブのリハーサルは演出のテストもあり、全ての演出が試されていました。ストロボライトやスモッグに反射する真っ赤な照明で暗転したり明滅したりステージは様々な色に染まっていました。

「ねえったら!ね~~~え!!!」

ベースを弾くマイは大声を出して私に叫んでいました。

ライブ費用を少しでも浮かせる為に音響や照明演出は学生でやっていたため、ステージ上の音量は轟音で会話もままなりませんでした。たまにストロボでマイの顔が見えると照明のせいか、アルコールのせいなのか、マイの顔は真っ赤でした。

大学四年生になった私たちのライブは冬の音楽祭と、春の卒業ライブの2つだけでした。私は部の伝統に従って冬の音楽祭は実力バンドで出る代わりに、そのあとの春の卒業ライブには最上級生権限でベース担当をマイに指名しました。

マイは部の盛り上げ担当になってからほとんどベースを練習しなかったので、最初は色々と文句を言っていました。私がベロを出して指さすとムッとふくれたあと、いつもの笑顔に戻り

「しょうがないな~その代わり、私のお願いも聞いてね!」

と言ってから承諾してくれました。

マイは他の人の希望を受け流すタイプでしたが、交際相手の私にだけは交換条件を出すなど甘えたところがありました。それは私に「私はマイにとっての特別な人間」だという確証を与えてくれていました。

マイは卒業ライブ間近までは交換条件を出しませんでしたがライブが近づいてきた日のことでした。

同棲するマンションで、私はマイとベッドで動画を見ていました。

マイは思いついたように私に条件を出しました。

「そういえば交換条件!バンドに入るときに私のお願い聞くって約束したよね!私、ここまで頑張ったよね!」

と区切ってから、

「ケイになにかあったら私の身体にケイの記憶を移植してほしいの。」

「それって、マイがいなくなっちゃうかもしれない。」

「大丈夫。私の記憶もケイの身体に移植させてほしいの。」

私は少し考えてから、ゆっくり言葉を受け入れました。マイとの心の交流はこれで完成すると思うと嬉しくなりました。

「もちろんいいよ。」

私はマイの条件を承諾しました。

マイは口角を少しだけ上げて目を細めました。そして、私の運動とは無縁で筋肉のないただ細いだけの脇腹を、マイは長い指ですっと撫でました。

 

マイと交際し始めたときから今までのことを思い出しながら、春の卒業ライブが終わりました。

ステージは大盛況で、二年ぶりのマイのベースも厳しい練習からかなりの上達をみせていました。

楽屋に鉢谷が入ってきました。

「よっ、おつかれ!」

社会人になり収入がよくなった鉢谷は、学生のときは打てなかったドーピングを施していて、鍛え抜かれた競泳選手のような体格になっているのを服越しに感じました。

小さく会釈をすると鉢谷は馴れ馴れしく私の肩をトントン叩きました。

「相変わらず加藤はつれないな~!」

いつもより陽気な鉢谷は電子ドラッグを使用しているのだと気づきました。そして私に挨拶をしながらマイの方を一瞥しました。

「おっつー!」

相変わらずハイテンションのマイも両手をあげて鉢谷に大げさに手を振りました。

「マイはなんというか、もうちょい練習しろよ~。」

鉢谷はマイを挨拶代わりにからかうと、マイもあははは~!といつものように笑って自虐ネタや冗談を言って楽屋を明るくしました。

卒業ライブの打ち上げには一年上のOBやOGが来ることが習わしになっていましたが、最近ではオンラインで参加する人が多く、宴会場は喫煙室の鉢谷とマイの喫煙組と低学年生が中心でした。私は何を吸っているか知っているのもありマイ達と離れ離れになりました。

宴会場の端のほうの席で、SNSのリエとの会話をさかのぼってぼんやりオレンジジュースを飲んで過ごし、二時間ほどで卒業ライブの打ち上げは閉会しました。

「二次会いってくるから先帰ってて~!」とマイは子犬のようなテンションで私のところに来て、きつくハグをしてから、かつての喫煙仲間の上級生たちとどこかへ消えていきました。相変わらずピョコピョコ小走りなマイは、しっぽがついていれば狂ったワイパーのように左右に振るのだろうと思いました。

私はセーターの香りを嗅ぐとマイの電子ドラッグの臭いがほんのりと移っていました。

「リエ、いまから会えないかな?いつものとこでもいいし、どっかで会おうよ。」

今ではほとんど既読のつかなくなったSNSでリエに連絡を取りました。

「ごめん!いま映画サークルの打ち上げなの!また今度ね!」

三ヶ月前ほどに会ったとき、リエはすっかり大人になっていましたが夜のアルバイトを始めたくらいで相変わらずドーピングはしていないようでした。

というのもリエの入っている映画サークルはアナログ撮影にこだわっており、今では希少なアナログ機材の調達に金策を労するばかりで、肉体改造などにお金をかける人は皆無のようでした。当然、彼女もドーピングしなくても目立たないようでした。

そのためか、元々は私のようにスマートフォンを利用したSNSのやり取りが主流でしたがアナログ化が加速し、目の前の人との交流に力を入れるようになったようです。

「また、一人かあ。」

思わず呟いていました。

打ち上げ会場をあとにしてマイと同棲しているマンションに愛車の白のスバルBRZで帰りました。

車内にはLed Zeppelinの「good times bad times」が流れていました。それは先ほどマイと卒業ライブで演奏した曲の一つでした。私は帰り道をマイとドライブデートをしていた日々に浸りました。

good times bad timesは「卒業ライブはケイのギターの映える曲を1曲だけでもやりたい!」というマイの強い希望から、私が比較的ベースが優しいものを選んだものでした。

しかし、私の見立てとは違い、マイには非常に難しいものでした。マンションでベースを練習するマイはどうしてもベースが弾けず、私はよく彼女の練習を見物していました。

私はある日、ついアドバイスを挟んでしまいました。

「マイの指はよく動いてるよ。でもタイミングがずれるってことは聴き込みが足りないんだね。」

と言いました。

「だって同じ曲何度も聴くの飽きるんだもん~!」

マイは太ももに乗せたベースを左右に振りながら答えました。鼠径部近くまで短い、いわゆるゴローさんパジャマで太ももが露わになっていたので、私は揺れる太ももに意識をとられながらも、アドバイスを進めました。

「車で聴くときもちいいもんだよ?」

「車?ケイ、車運転できるの?」

「高校の時になんとなく免許とったんだ。でもそれからは乗ってない。」

「車で聴きたい!車で聴きながら覚える!」

こうして私はこの曲をマイに覚えさせるため、授業が終わるとBRZで喫煙所までマイを迎えにいくことにしました。

何度も何度もドライブに連れて行き、1曲だけを延々と流し続けていました。マイはドライブデートを始めてから曲をめきめき覚えていき助手席でベースラインをくちずさめるようになっていきました。

何度目かの曲のループでマイとのマンションに到着しました。

 特にやることもないので私はお気に入りのバンドアニメの最終回である卒業ライブの回を見ました。

主人公が卒業後に流したような別れの寂しさからくる涙や、バンドメンバーとの熱い包容や友情の再確認というものは私には訪れませんでした。私はマイだけがいればよかったのでバンドメンバーとは特に交流はしなかったため当然でした。

一人帰宅し、1Kマンションの部屋はマイが居ないので不気味に静かで広く感じました。

「私も電子ドラッグしたらマイともっと話せるのかな」

孤独に苛まれた私はもっとマイと心の距離を近づけるにはどうすれば良いか考えながら部屋の天井をぼんやり眺めていました。スマートフォンではアニメのエンディングロールが終わり、黒い画面が映し出されていました。

黒い画面をおもむろに覗くと、肌の状態が悪く、奥二重で切れ長の瞳がスマホの黒い画面に反射して間抜けな顔で写り込んでいました。

唯一の取り柄の黒髪ロングも仰向けになっているため雑に散らかっており、不健康に痩せてお化けのような見た目に反射的に目を背けてしまいました。

私にも「ナチュラルフェチ」というドーピングを施していない人を恋愛対象とする一種のフェチ(性癖)の男性から言い寄られたことがありました。

私の見た目が明らかに「科学の手」が入っていないからでした。しかし、世の多くの男性はドーピングをし「立派に強化された屈強な肉体」を理想としていたため、私は彼らがいくら口説いてきても断っていました。彼らを見ると私はドーピングのトラウマを思い起こしてしまうだけでした。

それに私の理想は、スポーツだけで鍛えた自然な身体、太陽のような明るい性格の持ち主でした。きっかけはカフェテリアで偶然見かけただけでしたが、それから彼女との接点をおいかけるうちに見かけた彼女の仕草は私の理想そのものでした。

私からみて異常に発達した筋肉は恐怖でしかなく、二重の意味でも筋肉のつきやすい男性へは生理的な嫌悪感がありました。

不意に鏡となってしまったスマホから目を背けた先には、ベッドがあり、マイが脱いだパジャマがそのままになっていました。

私はわけもなく、野生のチーターが獲物を捕食する前の慎重さで、手を伸ばしていきました。

部屋はもちろん一人ですが、誰もいないことを確認し、捕らえたパジャマのパンツを寝転がった体制のまま自分の鼻へと近づけていきました。顔をパジャマにうずめようとしたとき、スマートフォンがけたたましく鳴りました。私のスマートフォンはあまり鳴らないので、その着信音に驚いて跳ね起きました。

画面には知らない番号が表示されていました。

「加藤?マイが大変なんだ」

少し間があってから電話に慌てた口調で喋り始めたのは鉢谷でした。

「さっきそのタバコでマイが、」

「どこにいるの、」

「歌舞伎町の、」

私は住所を聞き、マンションの前に止めてあった愛車に乗り込みました。

右足でブレーキを踏みながらスタートボタンを押すと、先ほど聞いていたLed Zeppelinの「good times bad times」の後半部分が大音量で流れました。一気にエンジンを吹かし、クラッチを切りギアを3速で発進するとホイルスピンを起こしながら車は発進しました。

数百メートル走っても車がいるかどうかの明治通りを下り四谷を過ぎ、裏道から新宿区役所を抜けると学生たちが輪を作っているのが見えてきました。

私は車を学生たちの輪の近くに急停車させ、ドアから飛び出るとそのまま輪の中心へ走っていきました。

「加藤、どうしよう。」

とオロオロした姿の鉢谷が話しかけてくるのを無視して、輪の中心の地面に倒れたマイの元へしゃがみこみました。

「マイ!」

「あはは、ころんじゃった。」

力なく言うマイの目はうつろで左右の眼は私をうまくとらえられていませんでした。腰から下を見るとカモシカのように美しかった脚はアコーディオンのように波を打っていました。私は大事なものが壊れてしまったことに激しく動揺しました。

「な、んでこんな、ことに、」

ひさしぶりに発声したせいなのか、あまりのショックのせいか声がうまく出せませんでした。

「お祝いに高級ダイヤをみんなで吸ったんだけど、テンション上がりすぎたマイがゴジラから飛び降りちゃって。あの、俺たち止めようとしたんだけど、マイ、すごい運動能力で、その、それで、どんどん登っちゃって、」

鉢谷が申し訳なさそうに私に伝えてきました。

「救急車まだなの?!」

私は彼の状況説明が言い訳に聞こえてきて、苛立ちを隠せなくなり強い語調で鉢谷を叱りました。

「救急?ダイヤがばれちゃう!こんなことが知れたら俺、」

鉢谷は電子ドラッグをダイヤと呼んでいました。

「119。」

自分の保身しか考えていない鉢谷を無視して自分のスマートフォンで救急車を呼びました。

「ごめんね。」

とマイはよわよわしく繰り返し言っていましたが、救急隊員が到着する前に一筋の涙をこぼしながら眠ったようになりました。救急車が来るとすぐに担架に乗せられました。私も彼女の手を取り、彼女と同じ救急車に乗りました。

私は救急車の中で、彼女の家族構成や血液型など聞かれましたが何一つ知りませんでした。彼女はあまり自分のことを話したがらなかったので聞かないでいました。知っていることは同じ大学の経済学部生で軽音楽部だが盛り上げ担当ということ、ファッションが好きで流行りに敏感なこと、気になったことは何でも試してみること。それぐらいでした。

彼女のことを何も知らないということは、社会から見れば私と彼女は友達以下の存在かもしれないと思うと、急に彼女との関係が希薄になってきたように思えました。

そこで、救急隊員は一応の見立てとして、生きていることが驚愕すべきことだがドーピングで改造された身体が奇跡的に彼女を守ったこと、しかし意識が回復するかは分からないことを教えてくれました。

「分かりました、では身体が元に戻るまでの間、お願いがあります。」

私は一通の手紙を書き上げ、救急隊員に渡すとともに一つの手術を頼みました。

それからどれぐらいの時間がたったか分かりませんでしたが、私は見慣れない天井と白い個室で寝台に寝かされた状態で目が覚めました。目覚めてすぐに全身には充実した活力があり、すぐにでも動きだしたくなるような高揚感がありました。

「朝日さ・・・いや、いまは加藤さんですかね?」

白衣の若者がカルテのようなものを見ながら私の横に立っていました。

「はい、加藤です。手術はうまくいきましたか?」

「私の質問を正しく理解して返事が出来たのなら手術は成功しているということです。いやあ、驚きましたよ。意識混濁の患者と記憶交換をしたいだなんて。それにあなたの身体はすでに・・・いいえ、ともかく一晩のうちに建築基礎工事から引っ越しまでいっぺんにやったようなもんです。」

白衣の若者は半ば呆れながら答えました。万が一に備えて、私とマイはお互いにドナーになる契約をしていたので、記憶交換の手術の承諾はサイン不要で行えました。本来、記憶の移植は一方通行のものでしたが、ひょっとしたら相互に行えば記憶を交換できるのではという仮説がありました。そして、それは成功しました。

「あなたの身体はドーピングだったこともあり、術後にすぐに身体は回復してしまいました。意識が戻るかだけ不安でしたが、そろそろ安定していくと思います。最初はドーピングの筋力の差などに色々と戸惑うと思いますが、やがて慣れると思いますよ。」

白衣の若者は注意事項を私に伝えました。

私は憧れのマイの身体がドーピングでデザインされた身体だと思っていなかったため驚きを隠せませんでしたが、見慣れた両手に切なさを感じ重要なことに気づいて顔をあげて尋ねました。

「私の記憶は全て朝日マイに引き継がれますか?」

「はい、おそらく。部分的に引き継ぐというのは技術的に難しいと思います。」

私は記憶移植を相互に行ったことから身体を入れ替えることに成功したことの高揚感を少しだけ感じていました。同時に、私とは真逆の「ナチュラルヘイト」、つまり自然体を嫌悪するマイのことを考えました。

「きっと怒るだろうな」私は目覚めた時にはマイが私の身体になっていることや、救急隊員に託した別れの手紙の事を思いました。

別れの手紙はマイに未練が起きないように、「実は好きな人がいたの。でもあなたにはいなくなって欲しくないから私の身体を提供する。今までありがとう。」と短く書きました。

私はドーピングだらけで突っ張る身体の張りに若干戸惑いながらも、記憶していた水坂リエの連絡先にマイのアカウントから連絡をとりました。

始めは彼女も戸惑っていましたが、記憶交換をしたのだと説明するとすぐに理解し、近くのファミレスで彼女に別れを告げたあとの複雑な気持ちを話すことにしました。

しかしその話をしている最中、どこからか居場所を知ってしまった朝日マイに私は動揺を隠せませんでした。手紙通り状況を見た彼女は私とリエが交際をしていると思い、マイはレストランを飛び出ました。

 

ーーーーー。

朝日マイは全身の激しい倦怠感と声帯を揺るがすことを認めないような喉の渇きとともに目をさました。

天井にぶらさがるLED電球は網膜に直接刺激を送り込んでくるような明るさがあり、思わず目を背けた。

「ぁ、だ、しぁ、」

上手く声が出なかった。そして声も朝日マイのものとは違うように感じた。

ドーピングをどれだけ打たなかったのだろう。腕はやせ細り、点滴が栄養を送っているだけであった。

「ぁ、すう、ぁ、」

朝日マイは相変わらず声が出なかった。電子ドラッグの副作用が起きたのか、記憶は断片的で様々に混乱している。ケイ、喫煙所、鉢谷、歌舞伎町、笑い声、屋上、ゴジラ?

現実感のない記憶は朝日マイを落ち着かない気持ちにさせた。朝日マイはなにかの事故でこうして入院していたため、ドーピングの定期摂取が出来ず激しい副作用を受けているのだと感じた。

まるでナチュラルであった。

ナチュラルは朝日マイにとって異常者にしか目に映らなかった。

 

彼女の母は、小さいときに危篤状態となり、記憶交換の提案を受けた。しかし、ドナーの提供を断りそのまま重病で命を落としてしまった。ドナー提供者は彼女の母の身体に意識が移動すれば、命を落とす可能性があったが、様々な理由でドナーを申し出る人はいた。

朝日マイに理解し難いのは、ドナーが居るのに命が続くことを断ってまで、自分の身体を保ち続けるナチュラル主義の思想だった。このことがきっかけでマイはナチュラル主義の人に嫌悪感を膨らませていった。それはケイと交際を始めたあとも変わらなかった。

しかし、ケイは特別だった。入学式の日から私を遠くから熱い視線をおくってきた。彼女の入りづらそうな場所にいっても、どこにでもついてきた。鉢谷からケイの存在を聞いたときは少し意地悪をして、ナチュラルには有毒な煙の多い喫煙所にも行ってみたが彼女は私に好意の視線を送ってきた。

夏になると急に彼女は現れなくなり、代わりに動画サイトで彼女にそっくりな身体の少女が人気を集めていることが分かるとマイはすっかり彼女に夢中になった。

よく見ると、ケイだと思った。

朝日マイは、彼女の関心が自分から離れてしまったことに寂しさを感じた。

そのとき、朝日マイは自分の屈折した気持ちに気づいた。今となっては見た目が同性同士の恋愛も珍しいことではなかったが、全身ドーピングと全身ナチュラルのカップルは珍しく、きっと注目の的にされるだろうと思った。

それから実際に会話を交わした大学二年のあの日からも、ケイは朝日マイのことだけを愛してくれた。

アルバイト先で知り合った水坂リエも、ベースを教えてくれた鉢谷も朝日マイのことを深く愛してくれたが、結局のところ彼女や彼の興味の対象は「全身ドーピング」の私の表面的なところにしかなく、奇しくも全身ナチュラルであるケイだけが朝日マイに無償の愛を示してくれた。

ケイは口数が少なく、本音はわからなかったが、それがかえって朝日マイに心地の良い安心感を与えてくれた。ナチュラルのケイに私は自己矛盾を感じながらも引き寄せられた。思想と肉体は別なのかもしれないと思い始めていた。

 

「朝日さん、目覚めましたか。」

白衣の若者がやってきた。朝日マイは力の入らない身体をやっと起こして、若者のほうに顎を向けた。

「具合はいかがですか?驚きましたよ。ここまで回復が早い方も初めてです。」

朝日マイは自分の縮んだ胸とやせ細り、血色も悪く、点滴につながれてやっと栄養を摂取している身体をみてもなお、そんなことが言えるなんて、悪い皮肉を言う人だと怒りがこみ上げてきた。いつもなら電子ドラッグで気持ちを抑制してきたが、今日は何も無かった。感情のコントロールが難しく戸惑いながらも沸々と湧き上がる感情に心をそのままにしていた。

「おおぃう、おおぇうあ!」

舌先が短く、上手く子音字が発声できなかったが白衣の若者は察しがよく、「どういうことですか」という私の言葉を理解した。

「あー、それは今はまだ答えかねますが・・」

何かを隠すように代わりに何か書かれた紙きれを出しました。

「加藤さんからこれを預かっていますので渡しにきました。」

朝日マイは「マイへ」と始まっている、殴り書きで読みづらいが加藤からの初めての手紙を受け取った。

折りたたまれた紙を広げると内容は簡潔ですぐに読み終えてしまった。朝日マイはアップダウンの激しい感情の起伏に揺さぶられ、若者の声はほとんど入ってきていなかった。

「彼女の意向で手術は成功しましたが、かなり以前の身体とは違うところが多いので、しばらく療養をおすすめします。」

事務的な要件を伝えているようだが、朝日マイはそんなことよりも自分の元恋人の水坂リエとケイが浮気をしていたことや、それがいつからだったのか時系列が分からず、パニックを起こしていた。水坂という苗字はSNSでも珍しく、その中でも同世代で同姓同名の確率は非常に低いだろうと察した。朝日マイは自分のSNSにアクセスすると、SNSから水坂リエを発見し、環状八号線沿いのレストランのあたりに居ることを突き止めた。水坂リエはSNSに疎く、GPS情報を消し忘れていたのだ。朝日マイは手紙の真相を突き止めるべく、水坂リエを訪ねることに決めた。

白衣の若者は手紙に動揺している朝日マイをそのままにして、病室を出ようとしたが、一度立ち止まって振り返り、重要なことを言い忘れていたことを思い出した。

「それとショッキングなこともありますので、しばらく鏡は見ないようにお願いします。」

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