或る不安
2021年3月執筆
履歴書に書いた字が滲んでいたらどうしようか、そんなことを考えるくらいには私は世間との心配事の視点が変わっているのだろう。これは一種脳天気ともいえるような性格を魂に灯しているものだと感ずる時もあるが、私はいつもこのような心配事が絶えなかった。
家が近いからという理由が決め手のレストランのバイト面接では君はもったいないなと言われた。いったい何がもったいないのだ。私は今までさんざん時間を浪費してきてやっとの思いで仕事に就こうと思ったのに。下手に経済学など学ぶものだから、労働者階級に堕ちるのはなんと下劣なことなのだろうという貴様が一番下劣なのだと人類全員から総ツッコミを受けそうな思想も、自分は正気であると思って持ち続けていたのである。
レストランでのバイトは不安そのものであった。まず私はこの店がつぶれてしまうのではないだろうかという懸念にとらわれた。昼間には閑古鳥が狂騒の波に飲み込まれて窒息してしまうほどの盛況ぶりを博しているのを見ていてもである。しかしそのような人気ぶりを見ているからこそ、私はいつかみんなに飽きられて、ぼろ小屋になって朽ちていくという妄想を膨らまさずにはいられないのだ。
バイトでそんな不安を抱えるのにも慣れたころ、私はむしろもっと人間らしい不安を抱えるようになってきた。それは誰かにシフトの替えを依頼されるととても断ることができないということから端を発したのである。断るのは一言、「無理だ」と喉を鳴らせば済むことなのである。しかし、私の中のある魂の揺らめきがそれを邪魔するのである。その揺らめきとは承認欲求ともいえるものであり、また、その「断り」というものが私たちの人間関係の破局へとつながるのではないかという不安である。
欲望に溺れ、獣となるもの、理性の檻に自らを閉じ込め、機械と化すもの。こうゆう者こそ最も下劣な人間であるべきであろう。では不安はどちらに与すのだろうか?不安に見えない糸で操られている私は、どちらにせよ下劣な何かであるということに変わりはないのであろう。
そんな不安を抱くのも疲れてきたころ、私はバイト先で知り合った一人の友人にたびたび怒られていた。その友の名は高橋という。高橋は私のシフトの時間とよく被っているいるということもあり、少しずつ仲良くなっていった。高橋はごみ袋をカバン代わりにしているような粗野な人間である。私はそのごみ袋を本当のごみ袋と間違えて、お菓子の食べ終わった袋やら、鼻をかんだティッシュやら何やらを捨てることがあった。そんな時いつも高橋は粗野な人間性通りにカっと睨みつけて怒る。しかし、睨みつけるのが下手なために半目で見つめているだけに見えるため、まったく怖くはない。だから私はよくそのごみ袋にわざと拾ってきた缶やら空になった弁当箱やらを捨てて、怒られていた。もちろん高橋は怒っていたが、二人の間ではそんなやり取りが戯れの一種であるという暗黙の了解があったし、楽しんでいた節さえある。そういう戯れの時だけは、二人は世界でだれよりも通じ合っていたし、どんな不安の風さえも私の魂の灯を揺らめかすことはできなかったのである。
そんな二人のやり取りがごみ袋をついに満たしてしまったころ、高橋に私の不安を垣間見せたことがある。
「私の住んでいる部屋が実は傾いていて、寝ている間に頭に血が上ったらどうしよう」
「うん、反対に寝ればいいんじゃないか」
「地球は回転しているだろう、そんなら地球が反対の時はどうすればいいの。」
「うむ、逆立ちするしかないだろう」
「夏に現れるとかいう、もやもや、あれは何だっけ」
「陽炎のことかい」
「そう、陽炎だ。その陽炎がなんとなく不安なんだ」
「どうしようもないだろうな。さあごみ袋を出しに行こう」
私たちは高橋の部屋を出て階段を下りた。天気は曇り後晴れ。時刻は曇り後の時刻である。つまり心地よく日光の射す、午睡を誘う時刻であった。ぼんやりとした頭の中でも私は部屋の鍵を閉めていない高橋の粗暴さに心配を覚えていた。思うに日本は鍵を閉めなくても安全だという風説があるが、私はみんなして変なところに律義になるものだから、もっと重要視すべきところに注意を払わないのではないかと思った。そしてこの世界では私が抱く不安というのは至極まっとうで、その他全員がおかしいのではないかと思うのだ。
私たちは高橋の家の裏手へ回り、家々を囲むコンクリートブロックの主張が激しい小路を抜けていった。高橋はコンクリートの壁にゴミ袋を擦り付けながら歩いている。完成された午睡の時刻にザリザリとノイズが走っている。小さな道路へと抜けた左手側にゴミ捨て場があった。私は高橋のために、誰にも見つからないようにひた隠しにされた扉を開けるみたいに、ダストボックスをそっと音もたてずに開いた。高橋はその中へ私たちの思い出が詰まった袋を投げ込んだ。
高橋はごみ袋を捨てて身軽になった腕を振った。そしてコンクリートの小路へ帰るでもなくそのまま道路沿いに歩いた。私は歩きたくなどなかったが、大きく割れた雲の輪郭から梯子のように私の下まで降りてくる柔らかな光が、抗議しようとする私の思考をあやふやに溶かしてしまった。道沿いに流れる小さな川には音も立てずに水が鴨と私の視線を押し流している。そのまま道を進んでいき坂を上っていく。登っていくにつれて家は少なくなり、風が時折吹き付けた。やさしさを知り始めた早春の風だった。肌寒さを感じたが、心についた錆を剥がしてくれているようで悪い気はしなかった。
坂を上りきると山を切り崩して丘にしたような台地へ着いた。台地は一面が駐車場になっていた。しかし不思議にも一台も車は停まっていなかった。高橋は駐車場の先端、台地の岬へと歩を進め、もうあと一歩でも歩いたら重力が我々を激しく地面へとたたきつけるようなところまで歩いた。もちろんそこからは私たちの住んでいる街が一望できた。なんて古典的な方法で人を励ますのだろうと私は高橋の不器用さに親しみを感じた。しかし古典的であったとしても私の主観的世界にそれなりの革新をこの台地の景色は与えた。
「俺たちは小さな世界に囚われている」
高橋は思い思いに皆、営みをしているであろう街を見下ろしながら言った。
「人々は人間関係に雁字搦めにされて身動きが取れず、埋没することに安心感を覚えている。だが君は違う、不自由を正しく認識している。そのことに不安を覚えている」
葉枝をドレスの袖が振れるように蠢かす木々は、風に誘われたかと思えば、幹をも震わせ踊りだし、春の訪れを歓迎していた。
「他者と自分とを比較しているとき、自分の身の丈を思い知る。でも比較することに終始していると、言い換えれば他人の物差しばかり持ってきていると、自分の物差しが何なのか、あるいはどの物差しが正しいのか分からなくなる。つまり、自分を見失う。それが小さな世界に囚われるという事だ。そんな時こそ俺はこうして世界を鳥瞰してみる。大きな世界では俺たちの営みはあまりにちっぽけだ」
「確かにこうして街を望んでいるとき、私たちは世界の外れに位置していて、とてつもなく小さな自己という存在を感じざるを得ないね」
丘の上で発見した新世界を眺めていると、私は確かにもったいないな、と思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?