【長編小説】異邦人 #10

第三章 賭ける


 表現の自由に関するセミナーを受け、増える誹謗中傷、裁判リスクに関する座談会にも出席した。お堅い集まりだと聞いていたのでネクタイを結んで行こうと思ったが、まさかネクタイの結び方を忘れてしまっていた。ボタンを締めるのが暑すぎて二年間つけていなかったのだ。時間が迫り、慌てて社内でネクタイの結び方を訊いてまわったが、誰もが知らないと言った。誰も結んだことがなかったのだ。

 本社から表現のガイドラインが送られてきたが、この街の支部ではそんなものは役に立たない。表現行為によって実力行使にでる輩もおり、それは表現への冒涜であり徹底抗戦すべきだという本社側の主張ももっともであるが、それはあの銃剣を生で見たことがない側の意見である。私のペンの芯はそれほど固くない。

 一部社員の給与振り込み銀行が長期メンテナンスに入り、先月の給与を現金で支給した。経理処理の都合上、再度現金で集金した小口現金を銀行に再入金しに行く手筈だった。一万と五四二ドル。

 暑すぎた。首筋に火がついたのかと思った。同僚に付き添ってもらい銀行までの道を歩いていた。夕方、最後の一絞りの太陽光が降り注いでいた。あたまがぼぉっとしてすぐさま冷やしに逃げ込みたかった。道中、同僚にこうつぶやいた。……なあ。この金もってさ、カジノでさ、賭けてしまわないか?……はぁ?……ルーレットの赤黒にさ。そしたら一万ドル。二人で分けてさ……はぁ……冗談だよ……いや、おもしろいんじゃないですか?……はぁ⁉︎……もし、負けたら、二人でコンクリートに頭をぶつけましょう。強盗に襲われたって言ったりして……おいおい……ぼくは返済不可能なんでその手しかありませんよ。でも、持ち逃げしないだけでも真面目ですね……真面目なもんか……

 その額は人生を終わらせるにはとても足る額ではないが、ささやかな平穏を脅かすにはじゅうぶん足る額だった。

 悪魔の囁きというものがあるが、私を唆すものはいやしない。倫理的判断基準の軸を無意識に飛び越えることはしない。悪魔は無意識のなかに住んではいない。あくまで悪魔という共犯者と手を繋いで仲良く飛び越えるだけだ。この街にいる私という存在が、生まれる前の私が、もともとクズであり、もしくは悪魔そのものだったのかもしれないが、もはや思い出すことができない。

 我々はその足でホテル内のカジノに向かった。歩みを進めるうちに心臓が鐘を打ち、足が震えてきた。一万ドルの入った封筒は重く掌がじっとりした。顔パスで受付を通過し、赤黒で一万ドル賭けられるハイレートの台を探したがどこにもなかった。

 マックスベット五千なんだったけか。いや九千五百があったような。

 近くでスロットのファンファーレが鳴り響き、大当たりを告げる。猿のように台を叩く者もいた。

 台分けて同じところ賭けましょうよ。

 我々は光沢のある肘掛け椅子を両手で引っ張り着席し、ビールを頼んだ。機械式のヨーロピアンルーレット。

 ああ、やっぱりやめよう。心臓が痛い。

 赤黒、どっちですか?

 私は黙っていた。

 規則的な黒と赤、偏った数字の羅列、出た目の数の比率。一見法則性のあるように並んだ数字に意味などない、ただ確率に素直に従って転んでいくだけである。赤が十回きたあとに入るのは、赤か黒である。慈悲を捨て希望も祈りも運命も超えて最後に入るのは、赤もしくは黒である。そこにロマンチシズムも数学的関心もない。あ、数学者はロマンチストなんだっけか……

 正気じゃないのは知ってますよ。でも今日やらないといけない理由があるんですよね?

 彼が何を言っているのかがわからない。わからないが、負けてすべてが終わって最後に残った燃えカスのなかから、どういった自分が生まれでてくるのか興味はあった。それは醜い犬畜生なのだろうか、それとも無垢な赤子なのだろうか。

 赤。いややっぱ黒。ゼロがきたらどうする?

 滲み出た汗でビールのグラスを滑らせてしまいそうになる。まだ半分しか減っていないのに、煙草は二本も消費してしまっていた。

 それは知らない。あー、これから毎月一万ドル返済していくのかあ。

 頭ぶつんじゃないの?

 ルーレットはテンカウントを数えていた。

 ぶつっていうかぶたれんじゃないですか。ははは。
 それに、どっちにしろ返済させられる可能性ありますよ。なんでこうしましょう。より頭の針を縫わなかったほうが、肩代わりするっていうの。会社には不可抗力ですと言いつつそれでも返済はしますと謝る。許されたらそれで万事オーケー。返済しろと言われてもでもぼくは返せないから、身体を張って詫びます。彼はコーラをストローで吸いながら言った。

 いいね、それ。

 ルーレットは回り、玉は赤に落ちた。

 危なかったですね。賭ける前で。

 既に賭けていた。
 横目で同僚を見やると、想像通りの顔をしていた。

 ——何してんの?

 すべて背負うから、その五千貸してくれない?

 何するんですか?

 三分の一に賭ける。

 あー、もうヤケクソなやつだ。

 私は一から十二の三分の一に賭け、目を瞑りながら玉の転がる回る滑らかな音を聴く。心臓を指でなぞるようなスーッと流れる擬似的な機械音、玉はやがてカッカッと詰まりだし、カランカランと鳴って音が消えた。ファイブ、レッド、オドとアナウンスが鳴り、私は震えた。吐き気を嚥下するようビールを一気飲みし、即座に煙草に火をつける。しばらくして、目でディスプレイを確認した。

 さあ、勝った。戻った。増えた。さあ、この五千をどうしようか。赤黒に賭けようか、なあ?

 勝手にしてください。負けたら一万もって素直に帰りましょう。もう十分楽しんだんで。

 そしてまた同じ過ちを侵す。だが、黒に賭け、玉は嘲笑うかのように赤にバウンドしたあと、黒に入った。我々は咆哮をあげ、まわりの客の好機の目と疎ましい目を感じながら、それを無視してハイタッチをした。まじで、赤に一瞬入ったとき、心臓も一緒に跳ねましたよ、さあもう賭けさせませんよ。彼は笑いながらそう言ったが、目は笑っていなかった。

 満たされてなどいなかった。ただの賭博狂と同じ一般的一時的な感情に支配されるにすぎなかった。
 ベット額は資金がゼロになるまで膨張する。欲望はゼロに収束しない。資金を超えて無限に膨張する。膨張し、膨張する。あたかもそれが目的だというかのように、資金はゼロに収束する。
 そういうものだ。


 一晩三千ドルを使った。女にクラブに。あとなんだっけ。

 カラオケで同僚はさんざん歌い、連れの女にチップを払い、帰路、タクシーに乗って川沿いを走りながら舗装されていない道路に揺られていた。隣で同僚はギターを弾く真似をし、掠れ声でまだ歌っている。物哀しい曲調。川を流れる客船が巨大な水棲生物のように見えた。

 ねえ、なんで歌わないんですか? 昔はよく一緒に歌ってたのに。

 私は金を手にしてしまった。それは無論、本意ではあったはずなのに、何も得てなどいなかった……、この生活が、それこそルーレットの途切れることのない数字の羅列のように提示され繰り返される無為を、どこかで絶ちたいと願っていた。ただ物事は意外な方向に運ぶらしい。

 タクシーで眠りについてしまい、起きたときには外は明るくマンションの下のベンチで寝ていた。金の入ったバッグはどこにも見つからなかった。後になって出勤しなくなった同僚から察するに、彼が持ち逃げしたのだと考えられた。

 私は全てを失ったかのように思われた。

 だが、まったく運命に翻弄され、それに従うよう決定づけられているかのようだった。

 私はおどろくほど寛容な措置をとられた。管理責任を問われ、形式上賞与をカットされたのだが、返済義務を負わずむしろ同情される始末だった。決裁者が同僚を直接面接したという負い目もあったのかもしれない。私は上に賞与以外に毎月の給与を控除してもらうよう願い出たが却下された。結局のところ、彼に責任をなすりつけたかたちとなった。

 彼の身辺調査は一ヶ月要した。彼の顧客受け持ちは五○件程度だったので、一社ずつ連絡し引き継いでいった。とくに不審なやりとりは発見されなかったが、よくあることさ、という顧客もいれば、訝るような対応を見せる顧客も多数いた。

 私自身は賭ける前と掛けた後で、何も変化はしなかった。何も賭けてなどいなかった。混沌としたこの街でさえ、社会における自浄作用が働き、自分が真っ当な市民であることを突きつけられる。けっきょくカスにもならず未だに皮膚すら焼けず炎は燻っているのである。

 私はすべてを喰らい尽くすまで、膨張しつづける。私は膨張し、収束する。すべてを失い尽くすまで。

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