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【長編小説】異邦人 #6
この街には意味のない職業が多数存在する。まず警備員だ。店の敷地面積が一定以上の場合、最低一人は雇わなくてはならない。ただ、彼らは警備などなにもせず、ある者はハンモックで寝、ある者はスマホを一日中いじっているだけだ。
また窓ガラスを汚すという珍妙なイベントがある。ビルの住居人が窓にペイント弾を投げつけ、汚し、それを清掃員が掃除する。清掃組合が日々の仕事にありつけることを感謝するために催す行事である。私も一度参加したことがあり、綺麗なものを汚すという気が引けるものなのだが、ペイント弾を投げる前と投げた後では考えが一変する。
この街にはゴミ箱が多い。ただゴミ箱の増設に反対するものも多い。同じ理由である。私もこれに倣い、ポイ捨てをする。
*
午後十時に着くよ。どうやって入ればいい?
と火曜日当日にメッセージが来た。
一人じゃ入れないから下まで迎えに行くよ。
と返信した。
十時までの時間、お気に入りの文庫本、およそ八回は呼んだだろうそれを、適当にパラパラとめくり開いた箇所から十ページほど摘むように読むという読書法を、五セットほど繰り返した。時間潰しにもなるし、セット数で経過時間がだいたい予想できる。
時間になりロビーで五分ほど待つと、大きなリュックを背負った彼女がやってきて、きょろきょろあたりを見回していた。彼女は私を認めると、手を振って駆け付けてきた。ピンク色のパーカーに突っ込んでいた手を引っこ抜き私の袖を掴む。向かい合って並んでみるまでは意識していなかったが、身長は一五○程度で肩あたりまでしかなく、桃色と黒色の分け目がはっきり見えた。何見てるの? と私を見上げ、フフと微笑む。コンビニでリンゴジュースを買い、三八階の部屋にあがった。彼女は雀のように飛び跳ね部屋を探索し、探偵のようにふーんふんふんと言いながら部屋を検査すると、納得したのかソファにちょこなんと座り込み、膝上に十本指を揃えて置く。無機質な部屋も桃色が添えられると、パッと明るくなった。リュックからプラスチックの箱を取り出すと、作ってきたスポンジケーキを差し出した。あんまり甘くないかも、と言って一切れを手で掴むと、カードを挿入するように私の口に押し込んだ。実際そんなに甘くはなかったがしっとりしていた。私は缶ビールで彼女はリンゴジュースで乾杯した。
二人でソファに座り流行りの映画をだらだら見ながら、
きみには何人のボーイフレンドがいるんだ? と訊いた。
パトロンが複数いたっておかしくはない。そのなかで一位になりたいわけではない。あるのは、道化にだけはなりたくないという割り切れなさ。
いないよ。あなたは、指輪はないのよね?
ないよ。
前に付き合ってた人は、隠してたの。
信じていいよ。
じゃあ、もう一度乾杯。
乾杯。
ただ、彼女にとっても同条件なのである。彼女らもまた我々に裏切られる可能性に怯えなければならない。
彼女はアニメを見始めた。わたし、このキャラクターのコスプレしたことあるの。と彼女は言った。我々は前回SNSを交換しており、彼女の投稿をいくつか見ていた。彼女はコスプレイヤーだった。
なあ、どうして、申し出をオーケーしたの。お金にそんなに困っているの。
あのね、たとえ他の人があのお金以上くれるって言ってもわたしは断る。それはわかって。そしてそういうことはあまり聞かないでいてくれたら、とても嬉しい。オーケーした理由は単純なの。あなたはわたしのガゥットだから。
ガゥト?
Gout.
痛風?
お気に入りって意味よ。ママに訊いてみればわかるよ。あなたが初めてお店に来たとき、彼女にあなたのことをGoutだって話をしたの。あなたと一緒に来た友達がいたでしょう。彼は他の女の子に失礼をしていたよね。でもあなたは違った。
それは買いかぶりだね。同じだよ。
どちらにせよ、あなたには意外かもしれないけど、最初から少しあなたに惹かれてたのかもね。
言葉に意味などない。私は嘘発見器など持ってはいないのだ。嘘発見器を手にしたとき初めて、言葉に価値が生まれる。私にあるのは、真実の皮を被った妥協である。その妥協のなかで私は真実の夢を見ることができる。
肩に寄りかかっていた彼女を引き寄せ、唇を重ねた。目を瞑り、吐息が漏れた。彼女の体温は高まっていった。彼女は私の肩に手をかけゆっくり押しながら、今日はダメと言った。
彼女はある島の話をした。この街から六〇キロ離れた港から定期船がでる。その島への切符は、この街の住人しかでない。余所者に土地を荒らされるのを厭い、法律で禁じられている。
彼女の父親が船頭をしていると言った。一度向かった際には、波が荒く入島できなかった、そしていつかその場所に行きたいと。島全体から湯気が立ち昇り、海は翡翠のように光り、見たことない魚が泳いでいる。夜は星が輝き満月の窓を通して宇宙とつながっている。
港まで寝台列車で行くの。乗ったことある? ほんと荷台みたい狭っ苦しいところに横たわるの。二人用の席もあってね、すっごくとなりが近くてね、お互い顔を見合わすように寝っ転がるんだ。あなたがいたらきっと面白いかも。
いつか、一緒に行きましょう。
夢を語るときの彼女はほんとうに楽しそうだった。
*
彼女の滞在時間は映画一本分の約二時間だった。十二時の一○前に帰らなきゃと言ってほんとうに帰ってしまった。迎えには友人が来るとのことで、私は三八階の玄関で約束の金を渡し見送った。ありがとうと言って翻した桃色と黒色の髪が、私の胸を打った。それが私と彼女の純粋な関係性なのである。
いつものようにベランダで煙草を燻らす。ベランダ対面には同じ高さの高層マンションがある。全八棟の各マンションは半面が重なるよう斜めにずれて配置され、昼には陽光を遮らず、夜の景色も見えるようになっている。一階層三二戸なので、対面のマンションは、同じく四五階、反面でおよそ八一○の住人家族の生活が私のベランダから窺える。ベランダで観葉植物を育てていたり、テーブルを置いたりしている部屋が多いが、窓はほとんどカーテンで覆われている。私のようにベランダに出て酒を飲む者は、深夜になると誰一人いない。
長方形の食器棚に人が収容され、時に灯りがつき、カーテンが開け閉めされ、顔をだす。彼らから見れば私もまたその一員なのである。
鏡を見ると唇が黒くなっていた。それを見て唇を重ねたことを思い出していた。
*
おーい、
飲み行くぞ。
残業をしていると、女友達のレンからメッセージが届いた。
仕事を手早く締め、我々は要塞の入口で落ち合い、エリアAの安い路面の居酒屋に行った。
髪をうしろで束ね、流行りの化粧を完璧に施す。天敵はきっと汗なのだろう。レンは、生まれはこの街で、育ちは私の故郷と同じであった。およそ一年前に親戚の住むこの街にやって来て、印刷会社に勤める彼女と仕事で絡んで以来、たまに飲みに出動するようになった。彼女もまた、まだ友人が多くはなかったからだ。
きみ、女ができたんだって?
彼女は心臓のクシヤキを齧りながら訊いた。原付で来ているのに、ビールを頼んでいた。
なんで知っているの? 思わず素っ頓狂な声が出てしまってきまりが悪くなった。
ほら、やっぱり。どんな子なの?
なあ、そんな素振り見せたか?
だってキスマークついてるよ。
はいはい。私は扇子で仰いだ。
言いたくないならべつに訊かないけどさぁ、と言って話を勝手に進める。クソ取引先のクソ男とさ、この三ヶ月くらいさ、良い仲だったって言ったじゃん?
もう既にクソだって言ってるよね、きみ。察するよ。
ああ、うん、アイツまじで、地元に女がいたの隠してやがった。
となりの卓に座っていた男に見覚えがあった。たしか同じビルの証券会社に勤めている。派手な装いの女を連れているが、以前会ったときは別のまた派手な装いの女であったような気がする。
それだけならいい、まだ。あいつ、あたしを天秤にかけといてさ、正式に付き合う前に身体許すような奴はお断りだって嘯いてたみたいなんだよ。ていうか、正式に付き合ってなかったんかい、ってまずそう思うわけだ。ねえ、どう思う?
ツキミのツクネが出された。この街の鶏卵は温度管理ができていないのか割った瞬間黄身が潰れること請け合いだが、出されたツキミは綺麗な満月だった。彼女は料理の写真を撮ったあと、自身の写真を撮り加工しSNSに投稿した。その素早さはお手の物だった。フォトジェニックとは程遠い薄汚れた空間ではあるが、それがなんらかの優越性を高める効果もあるらしい。
あてつけ? と私は訊いた。
合点。
クソ取引先の男へのアッピールとしての手段らしかった。
あたしは幸せなんだとみんなに誇示しなければならないんだ。
反感買うんじゃない?
べつにいいの、それを含めてみんな、あたしに興味あるってことだから。
この街にやって来る女は可憐さとは無縁だ。可憐さが似つかわしくないと言えばその通りであるが、ほとんどの女が変わり種で、たおやかである。その健気さこそこの街へのビザであると考えていたが、淘汰あるいは可憐な少女でさえこの街が精神を武装させてしまうのかもしれない。無論、男はみな本来的に軒並み変態である。
しんどい。ヘイトが溜まりすぎている。
嘘で愛の言葉を吐くことはあっても、嘘の悪口はないからね。傷つけられた言葉だけが心に残ってしまうだけだよ。早く忘れてしまえ。
店員が電撃ラケットを振り回すたびバチバチと蚊が爆ぜる音が鳴る。
花は悪口にしか咲かないもんね。そうだ、良い記憶は抱かれた思い出ばかりで、たしかに優しい言葉も投げてくれた、でもそんな言葉もきっとあたしとやるためだったんだ、
それなのに男はどうして女に神聖性を求めすぎている。こっちからしたら、穴を貸してやってあげてるだけなんだから。変な優越感に浸らないでほしいものだよ、
さっさと種拵えたいよ、でもタイミングがね、難しいよね。そういうこと考えるのもよくないって言われるけど、考えない阿呆はこんな街にわざわざやって来ないわけだ。一生閉じこもって干渉してくんな。って思わない? 価値観で飯食えんのかってな。
彼女はスマホの画面を見せつけてくる。
あ、そうそう、君が言う通り忘れるためにさ、ちゃんとマッチングアプリを使っているんだ。と言って画面をスワイプする。いろんな男が写し出される。
呆れた。もうペイジンの男を捕まえているらしい。
とつぜん横を戦車がエリアD方面へ通り過ぎていった。
ねえ、きみはエリアDに行ったことある?
何回かね、ここらの案内役と一緒に取材で。奥までは行けてないけどね。
エリアAがA通り沿いの路地を中心に発展した異邦人の街であるのに対し、エリアDはA通りから交差する川を挟んだ向こうに位置する完全に現地人の街であり、スラムである。また異邦人がその奥地まで入ったことはなく、好奇の的だった。軍部が向かったのも、そこには反乱軍の一派が潜んでおり、政府を転覆させるほどのなんらかの汚点の証拠が眠っていると噂されていた。
地雷が埋まってるって聞いたことあるんだけど。
そんな馬鹿な。でもあそこじゃ、うちらはカモだ。薬でも盛られて全部アリババされてしまう。まあ、きみなら一人でも行けるだろうけども。
無理だよ、か弱い女の子だよ?