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【長編小説】異邦人 #5


第二章 付き合う


 彼女と再開したのはこの街で一番高いループトップバーだった。全長約二一◯メートルのビルの天辺がすぐそこに見える。

 爆音で流れていたEDMは同僚に言わせると、十数年前の古臭い曲だというが、私にはまったくわからなかった。この街でよく流れるアップテンポな曲である。ジグザグに配置されたテーブルを囲む人々を縫うように避けながら黒服に案内されたテーブルについた。どこかから大麻の臭いが漂っていた。風が強く、グラスの水面が揺れていた。

 会社の飲み会の三次会で来ていた。近くのバックパッカー街でしこたま飲んだあと、一番ウブでかわいらしい部下の女がループトップバーで飲みたいと言い始め流れで決まったのだ。

 部下たちは慣れない手つきで片手を上げながら曲調に合わせて飛び跳ね、それは大きく起伏し波となって、私が沈んでしまったのかと思われるほどだった。

 桃色の髪がちらりと視界に入る……五席離れていた中央の円形のカウンターで、ジントニックらしきグラスを両手で掴みわずかに揺れているそのすがたに、私は見惚れた。彼女は私を認めると一瞬目を皿にしたのがわかった。一緒に来ていた男女二人と話すのをやめて、黒縁の丸メガネのなかから訴えるようにじっと私を見つめた。同僚が場を取り持ち、彼に十分な会計代を渡し、彼女のとなりに行った。久しぶり。やはり彼女だった。

 一番端の一番街を一望できる場所だった。

 よく来るの? と訊いた。

 一番高いと言ってもバーは三九階層部分に位置するので、私のベランダより一階高い。

 二回目。と言ってピースをした。

 なんでわざわざ高いところでお酒を飲むんだろう。

 風が気持ちいいからじゃない。

 友達のところに行かなくていいのか。

 街の景色のなかで一際光を放つのは、街の中心地を五○○メートルほど両断する大通りだった。パタール通りと呼ばれ、歩行者天国になっており、観光地である。英雄パスター将軍の名前から名付かれたか、細菌学者のパスツールに由来するのか住民たちもよくわかってはいない。

 いいよ。彼女と彼に付き合って来てるんだ、今日は。だからわたしがいなくても問題ない。と彼女は物憂げに言った。

 床に黒い染みができて、まわりの者たちが手のひらを上に向ける。暗い雲に一面覆われていた。彼女の眼鏡に水滴がついた。やがて雨は強さを増し、みんな屋内に流れていき、我々も逃げこむ。

 きみを探していた。エリアBで働いていると聞いて、行ってみたんだ。

 仕事辞めたの。

 大きなバッグから取り出し、渡してくれたハンカチで私は顔を拭った。

 もう?

 雨は嫌いだな。わたし、天気アレルギーなの。

 彼女はハンカチで眼鏡を拭き、濡れた短い髪を後ろで束ね、水分を絞りとった。桃色と黒が渦を巻いて混じり合い、二色のソフトクリームのようだった。

 調子悪かったから、降るんだと思ってたんだけどね。

 この季節には珍しいね。何をしているの、今は。

 経理。と答え、あとインフルエンサーだと言った。まだ稼ぐとかそういう段階じゃないけどね。時々依頼があるの。

 屋内にあるカウンターで同僚たちはまだ飲んでいた。部下たちはちらちら見てきていた。私は手で払った。

 あなたみたいな、自由な人を見ると、わたしもすこし憧れてしまう。

 きみはこの街をでないの?

 わたしはこの街のインフルエンサーなんだから。

 自分はこの街を出られる。出ようとすれば。
 それはとても幸福なことね。

 きみもいっしょに来ないか?

 わたしは、この街のインフルエンサーなんだ。
 と、同じことを繰り返した。

 わかんないじゃないか。きみの投稿は世界に波及するかもしれない。

 本心で言ってくれているなら、嬉しい。

 すでに雨はやんで、暗雲は遥か遠く一局地に巨大な影を落としていた。

 わたしもあなたにもう一度、会いたかった。連絡先聞きそびれちゃって。とつぜん辞めたから。教えてくれる? 今度は晴れの日にでも。

     *

 私の仕事領域は、人事労務、経理の決裁、取材からライティング、フリーランサーの管理、広告営業まで多岐に渡った。朝から昼まで事務処理をこなし、営業はほとんど紹介頼りで夜に会食ばかり行っていた。仕事の割り振りが下手だと言う野暮なやつはこの街にはいない。この街で信用できるのは自分自身に他ならないからである。

 何日待っても彼女から連絡はなかった。同僚から急かされ、私から連絡をした。

 バックパッカー街で飲まない?
 と打ってみると、ほんの数秒で返信がきた。

 わたし、あそこ嫌いなの。騒がしいじゃない。

 どういったところがいいの。

 スシヤとか。でも今日はダメ。

 予定はなるべく空けておきたかったが、
 じゃあ、そうだな、でもあそこは大衆店だし。金曜日は空いてる? と返してしまう。

 五分後、ブブと携帯が振動した。

 空いてるよ。

 じゃあ、仕事終わったら連絡するよ。



 仕事が長引きそう。どうする? 先に食べとく?
 と金曜日の夕方に連絡がきた。

 ビルの合間にくぼんだビー玉のような太陽によって茜色に染め上げられた空は、雲によって色合いにムラがある。逆光が街全体に影を落とし、張りぼての飛び出す絵本のようだ。

 喧噪から察しても、もちろん夕日なのだが、よくよく思えば朝日であってもたいした違いはない。仕事終わりにも関わらずくたびれた顔をしている者はおらず、路上から漂う咽るほど生臭さのなかでも足取りは軽やかで、目には子供のような純真さが宿っている。

 自宅に戻っていればよかったと後悔していた。時間をつぶすのが骨だった。近くの欧米スタイルのハンバーガーショップのスタンドで、ビーフグリルハンバーガーとフレンチフライを食べて、ギネスを飲んだ。

 食べ終わって時計を見ると、二○分しか経っていなかった。

 いつになる? と連絡した。

 二十一時になりそう。と返信がきた。

 まだ十九時一○分前だった。

 時間になったらここに来てと、地図のURLが送られてきた。

 それまでの間、ANABARで暇を潰した。

     *

 彼女の行きつけのバーラウンジの店内は暗くクラブのように低音が大音量で響いていた。我々はソファに座り、ビールを飲みながらシーシャを二人交互に吸った。先端にキャップをつけて三回ほど吸って、咽て、呼吸を吸うようにまた三回ほど吸う。彼女に渡し、口をあけっぱなしにして立ち上がる煙で遊んだり、同じようにげほげほと咽てしまう。足を組みなおしクールに長く息を吐いて玄人ぶりをわざとらしく見せつけてくるすがたを見て、私も負けじと深呼吸で応戦した。とつぜん彼女が手招きをし、何かと思ったら見知らぬ若い男が傍にある円柱の椅子に座った。男ははじめまして彼女の友人ですと自己紹介したが、事情がわからず適当な相槌を返した。彼女は男に再度手招きし呼んで座らせると、私のとなりにやってきてソファに深く沈みこんだ。身を乗りだしセンターテーブル越しに二人は会話をしているが、ミュージックが邪魔をし、はたから見るとまるで喧嘩しているようである。彼らは私を手持ち無沙汰にしたが、互いに友人以上の意味合いはもっていないだろう。こけしみたいなその男は私のことを兄貴と呼び、話しかけてくるが全然あたまに入ってこない。

 折を見て彼女の名を呼んだ。彼女はにっこり笑って私の肩に寄りかかった。もう一度なぁと呼んだ。騒音が言葉を曖昧にさせ、孤独を鈍らせる。

 彼女は身を乗り出し音楽に合わせ、大きな丸メガネがズレるほど首を縦に振った。

 耳元で大きな声で叫んだ。話があるんだと言うと、不思議そうな顔をして、
 ちょっと、離れましょう。

 奥にもう一面ビリヤードを遊ぶためのひらけた空間がある。区切られてはいないが、騒音が遠くなった。彼女はビリヤード台にちょこんと腰掛け、瓶底にライムを落としたコロナを飲んでいる。

 疲れちゃった。

 彼女はキューを足に挟み、先端にわずかに重心を任せ、大きな息を吐いた。

 楽しくない?

 そんなことはないよ。

 嫌なことがあるとここに来るの。全然話できなくてごめんなさい。

 騒がしいところは苦手じゃなかった?

 ははは。と誤魔化し、それで話って、何?

 きみと真剣な関係になることについて、考えていたんだ。

 ちょっとそこに座りましょう。と言って、近くの革張りのソファに腰掛けた。

 まず、ありがとう。
 一息吐き、
 言葉通りの意味で受け取っていいのね。

 私は頷いた。

 ああ、その話の前に、そうね、わたしもあなたのことが好き。でも少し複雑な事情があるの。

 彼女はわざとらしく空を見つめ、継ぐ。

 率直に言うと、お金が必要なの。あなたと真剣な関係になって、あなたと定期的に会うために必要なの。

 それはどうして?

 わたしはわたし自身をケアしなければならないの。今昼間は経理の仕事をしている。八時まで、土曜日は昼まで。わたしは常に疲労している。わたしはそんな顔で恋人に会うわけにはいかない。お金さえあれば時間がつくれる。だからなの。これを馬鹿げた提案だと思うなら、無視してくれて構わない。ごめんなさい。と矢継ぎ早に言った。

 金ならとくに問題はない。ただ教えてくれ、きみは他にも仕事をしているだろう?

 彼女は四つの仕事をしていた。経理、EC、クラブのブッキング、夜の仕事のスケット。

 きみはそれで、お金があれば仕事を減らすんだね?

 うん。時間がつくれる。

 私はある程度の収入があったが、貯金はなかった。

 彼女の要求額は私の月給の十分の一で、彼女の月給の半分だった。私は月々のビール代をそれに代えてもいいと思った。

 お金がないならぼくの家に来ればいい。自分一人では持て余している。家賃の心配はいらない。アクセスだっていい。

 そう簡単な話ではないの。でもそう言ってくれてうれしい。ありがとう。一緒にしたいこといろいろあるんだ、ご飯食べたり映画見に行ったり遠出もしたいんだ。


 さっそくなんだけど、来週の火曜日会ってまた話さない? 今日はもう疲れちゃった。えっと、あなたの家に行ってもいい?

 掃除しておくよ。

 彼女は私の腕を両手で抱き、顔をうずめた。うれしいと、零した。

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