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Cift #4 ~分人・Ciftの自分とその他の自分~

作家の平野啓一郎が唱える分人主義という言葉がある。

一人の人間には、色々な顔がある。つまり、複数の分人を抱えている。そのすべてが〈本当の自分〉であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のことである。

現代ビジネスより引用)

昔に比べると身を置く環境の数が増え(=職場と家庭だけではなく)、またSNSなどにより複数のコミュニティを気軽に行き来できるようになった。そのなかでどの瞬間が演じている自分で、どの瞬間が本当の自分、ということではないと言う。そのいずれもが自分の一部であり、その集合体が自分なのだ、という論旨だと理解している。

個人的にはとてもしっくり来る感覚だ。
Ciftにいるときの自分と、学生時代の友人といるときの自分は明らかに違う。けれどもそのどちらかが偽物の自分、というワケではないと自身では捉えているからだ。

とはいえ、一つ問題がある。
実はCiftにいる自分と、その他の自分でかなり距離があると感じているのだ。これまで自分が属してきたどのコミュニティとも重なる部分が少ないような気がする。そしてその距離感に一種の苦しさを感じてしまっているのだ。図で表すこんな感じ。

なぜそう感じてしまうのか。この問いからは2つの潜在的課題が浮かび上がる。

◆演じられた自分/重心移動

一つはCiftにいる自分は演じられた自分である可能性。
先日記したCiftのコンセプト、頭では理解しているつもりだ。でもまだ腹落ちしていないのかもしれない。凡庸に生きてきた自分にとって、Ciftの思想はとても崇高なものに感じられて、どこか別世界の話――。その中でも自分の立ち位置を俯瞰し、ミッションを定義して、役割を見出し、まさにそれを演じている。そんな状況は大いにありそうである。

もう一つは自分の重心を移す必要性について。
距離感から生まれる苦しさを、単純に苦しさとして処理するのは簡単なことかもしれない。でも、もしかするとそこに見過ごしてきたヒントがあるのではないか。たとえばCiftの自分と他の自分が重なる部分が少ないとして、もしかするとその重ならない部分にとても大切なものがあるかもしれない。そうであれば他のすべての自分をCiftの自分側へと“ズラす”方が良いのではないか。

これを具体的に落とし込むと、たとえばCiftで大切にしようとしている価値観の対話を、他のコミュニティでもやってみる、そんなところかもしれない。そうすれば自分だけでなく、自分に関わる人含めて、少しだけ世界を変えることができるかもしれないし、それがCiftの目指す平和につながるのかもしれない――。

いずれにせよ二つ目の課題については、一つ目の課題がクリアになってからの話だろう。そして、資本主義に身を置いてきた者にとって、それは理屈だけで解決できるものではなさそうだ。Ciftに自らを浸しながら、ちょっとずつ、ちょっとずつ、その変化を感じていこうと思う。

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