都市とケアと商売 ─都市雑感#7─
先日(というか1年半前)、ようやく「ブルシット・ジョブ─クソどうでもいい仕事の理論─」を読了した。
365ページにわたりぎっしりと書かれた文章から、デヴィッド・グレーバーの圧倒的な知と、なにか怒りにも似た圧力を味わった本だった。(読了するだけでも相当疲れた…)
そこで主に語られていたのは「なぜブルシットジョブは生まれるのか」であったが、自分の興味を引きつけたのは別のポイントだった。それは「ケア労働こそ本来はもっと資源配分されるべきものだ」という主張だ。
読了後、次に手を出したのが「生き心地の良い町─この自殺率の低さには理由がある」。こちらはいくぶん気軽に読めたが、とても含蓄のある一冊に感じた。
全国的にも自殺率が低い徳島県海部町のフィールドワークを通して、まちの成り立ちやそこに起因する文化風土が、結果としてまちぐるみでのゆるやかなケアを成り立たせていることを紐解いていく。ざっくりいうとそんな趣旨の本だと読めた。
何の気なしにたまたまこの順で読んだ2冊だったが、そこで浮かび上がってきたのが「ケア」という言葉。このキーワードを都市と言う視点から少し考察してみようと思う。
そもそも「ケア」とは
とは言え医療や社会福祉については門外漢なので、まずそもそも「ケア」ってなに?というところから調べてみた。この論文がよくまとまっていたのでかいつまんで紹介。
まず英英辞典では“CARE”は次のように説明されている。「世話すること」と非常にシンプルだが、病人・高齢者・乳幼児という例が、医療・介護・保育などケアの領域をゆるやかに示している印象。
一方で論文内では「スキンケア、ネイルケア、へアケア、ペットケア、ケアマネージャー、ケアプラン、衣服のケア、機器のアフターケアなど、数え上げれば切りがない。」として、領域問わず広がっていることに言及。また肝心の医療・看護分野や社会福祉分野でも、様々に定義されているのが実態らしい。
そんな中で「ケア」の概念について言及する4人の論説が紹介されており、その中でも上野千鶴子とメイヤロフの論説は印象深かった。
上野の『ケアの社会学』では「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的、経済的、社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係」としている。
難しい表現だが、ポイントは「行為と関係」としているところ。とくに関係。行動そのものだけではないということだ。
一方のメイヤロフの『ケアの本質』では抽象度がさらに上がり、「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」としている。
またこの定義に直接の記載はないが、メイヤロフはここで成長・自己実現するのはケアされる側だけでなくする側も含まれるという。「ケアは関係性そのものであるので、一方だけの成長では不十分である」そうだ。
以上、論文をかいつまんで紹介したが、結局分かったような分からなかったような。ただ一つ、「ケア」の言葉が持つニュアンスの一つに「関係性」があるのは興味深い。たとえば提供⇔享受、あるいはサービス⇔対価といった捉え方とは一線を画す、そんな印象を受けた。
都市でケアからこぼれ落ちる
関係性が根幹の一つであるケアだが、その意味では個人化が進む日本、とくに都市部においては享受できる機会は減っていっているように思う。多くの人にとって関係性を結ぶ一番身近な存在である家族がそばにいないからだ。いくつか数字を挙げてみる。
まず日本の総世帯数に占める単身世帯の割合。
2040年予想=39.3%(2018年推計)
2020年時点=38.0%(2020年国勢調査)
4年前に推計した2040年の数値に、2年前の時点で肉薄している。おそらく推計は確実に超えるだろう。さらに東京都内で見てみる。
2040年予想=51.2% (2019年推計)
2020年時点=50.26%(2020年国勢調査)
今の時点で都内の世帯の2つに1つは単身というなかなか衝撃的な事実だ。LIFULL HOME'S 総研も2020年、これを軸に興味深いレポートをまとめているが、住まい方に留まらない影響がありそうだ。
また家族という身近な存在によるケアだけでなく、プロフェッショナルとしてのケアである介護や医療・看護の領域でも人材不足が叫ばれて久しい。
-介護職は2025年に32万人の不足
-看護職は2025年に7-27万人の不足
-医療福祉全体で2030年に187万人の不足
※保育は少子化のため将来的な不足は予想されいない
かつては家族や地域があるか程度受け皿となってある意味で”内部化”されていたケアが、社会構成の変化によって漏れ出ていく。一方で社会保険制度が整備され、ケアを”外部化”できる仕組みが整った矢先、それも人口構成の変化により破たんする。こうして過密化された都市でケアからこぼれ落ちる人が増えていく──、かなり乱暴ではあるが、上に挙げた数字から都市におけるケアの実情はこのように想像された。
ケアを「再内部化」する
外部化されたケアには別の弊害もあるように思える。外部化されたケアはプロフェッショナルの下に集約されるわけだが、そこには《効率→管理のワナ》がつきまとうのではないか。限られた人員で多くの対象者をケアしなければならず、どうしても効率を求めてしまい、それはいつしかケアから管理のロジックに搦め捕られてしまう。先日も中井やまゆり園という知的障害者施設で不適切対応が話題になったが、一概に施設の責任だけとは言いづらいのではないか。
またこの問題はケアの場が閉じてしまうことも原因かもしれない。多くの人の日常からケアの場が外出しされ、普通の人は立ち入らない”特別な場所”となってしまう。そうして閉じられ、ブラックボックス化され、目の行き届かないところで効率→管理のワナにハマる。あるいは集約されることで負荷が限界を超えてしまうという具合に。(半ば想像なので、知見がある方はぜひ教えてもらいたい)
そうであればケアを閉じずに、かつ分散化することがこれからは重要になるんじゃないか。一カ所に集約せずそれぞれが少しずつケアを引き取る、ある意味で再び内部化へと向かうのだ。実際に国も近い方向性を示しているように思う。
具体的には介護保険法の2011年改正で地域包括ケアシステムという体制構築を各自治体に義務化した。「高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援の目的のもとで、可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることができるよう、地域の包括的な支援・サービス提供体制」というものだ。
とくに近年は人材や財源の不足、世帯構成の変化などもあってか、このシステムを巡る議論では「予防」や「地域」という論点が強くなっている印象だ。ケアが必要にならぬよう地域ぐるみで予防・緩和する──、まさにケアの再内部化と言えないだろうか。
ケアを閉じずに商売で内包する
しかし示されている方向性のいくつかの部分に若干の違和感を覚えるのが正直なところだ。たとえば介護予防の取り組みにおいてボランティアの活躍を重視したり、あるいはアクティブシニアをケアの担い手として担ぎ出すなどだ。いずれも否定されるものではないが、どこか搾取のにおいというかジリ貧な構造問題が透けて見える。
ケアを閉じずに再内部化させることが重要とは述べたものの、善意に頼るのは持続可能な仕組みではないのでは?と思ってしまう。これは介護に限らず、保育や障害者福祉なども同じ流れと構造的課題を感じる。
そんな中、最近可能性があるのではないかと感じている事例にいくつか出会った。それはケアを閉じずに商売で内包する可能性だ。2つほど事例を紹介したい。
一つ目は春日台センターセンター。
グループホーム、小規模多機能型居宅介護、児童発達支援事業、放課後等デイサービス、就労支援A型B型、コインランドリー、コロッケ屋、寺子屋という全部盛りの複合施設。一度訪れただけで「ここ、なんかいい」と思えるステキな空気のただよう場所だ。
その背景はこの記事にとても丁寧にまとめられているのでそちらに譲るとして、ここでは2つの点を推したい。
まずランドリーとコロッケ屋は就労支援を兼ねているのだが、とても自然なのだ。誤解を恐れずに言えば嫌味がない。「就労支援ですよー!」と前面に出るわけでもなく、コロッケは美味しく、価格も極端に安過ぎず、まず商売としてきちんとしている。
もう一つは施設全体が閉じていないのだ。これだけ用途が混在しているので、あからさまにそれぞれの用途を交流させずとも、結果としてお互いにちょっとずつ入り混じる。強制ではなく偶発。開くというより閉じていない。
とにもかくにも何かと絶妙で、とても可能性を感じた場所だった。まだ未訪問だが栃木県那須町にあるGOOD NEWSも同じ気配を感じる場所な予感。
もう一つの事例として挙げたいのは以前通っていた街中華だ。
ここはおかあさんとおばあちゃんの二人でフロアを回しているが、おばあちゃんは色々できないことがある。足が悪くてスタスタ歩けないので、配膳下膳ができない。記憶力も落ちてるので2品以上の注文が受けられない。会計もあやしい。
するとお客さんは自然と手伝うようになる。水は自分で取るし下膳もする。注文も様子を伺う。サービスとしては良いワケではないのに、なぜか悪い気はしない。むしろ愛着がわく。さらにおばあちゃんはとても人懐っこくてなおさらハマる。
そしておかあさんも分かっていながらあえてフォローしない。下手するとおばあちゃんがいない方が早くできるかもしれないけど、あえてそのまま。そうしてこの店独自のリズムが生まれる。
これはけっこう高度な設計だ。意図的に“弱さ”を配置する妙とそれを貫く胆力。そうして生まれるのは、おばあちゃんの社会的な居場所、客と店の関係性の融解、お店のリズムのコントロールetc...もちろんそんなことは考えてないかもだけど、スゴイ。
以上、2つの例を紹介したがどちらも「ムリがない」感じがポイントだ。もちろん効率的な経営かと言われれば違うかもしれないが、かと言って「世のため人のためがんばってます!」と言うほどの肩肘張ったものでもない。自分たちが出来る範囲のケアを引き取っている、そんなところだろうか。
ケアを入口に都市を自分事化する
最後は商売を通してのケアの再内部化を提案したが、もちろんこれですべてが解決するとは思っていない。医療や福祉の各制度を中心にどうにかこうにか支えていくのが基本線であることには変わりない。
しかし人口構成や世帯構成の変化による歪みは不可避、そのフォローを善意だけに期待してしまうのもムリがある。かと言って魔法の杖のような一つの解決策があるワケでもない。薄皮を一枚ずつ重ねるがごとく、あの手この手を尽くしながらなんとか乗り越えていくものなんだと想像する。その薄皮の一枚として、商売を通してのケアの再内部化というのもあるのではないか。決してムリはしない、そんな薄皮の一枚。
また都市という観点から考えても、可能性のあるものだと思っている。それは人が都市に関与する入口になるからだ。
近年の都市においては、ケアに限らず多くのことが外部化=サービス化されてきた。都市に生きる人たちはその多くの時間を”サービス受給者”として過ごしている。結果、あらゆることが自分事化せずブラックボックスとなり、一方で”サービス提供者”たちはどんどん疲弊しているように思う。
しかし商売でケアが内包されることで、そんな人たちも生活の中でケアに触れる機会が生まれる。ケアはサービスと違って少し面倒だ。しかしその摩擦係数が愛着に変わる。受給者⇔提供者の境界線が少しだけ融けて、都市に関与する入口になるのだ。少なくとも私は先の街中華でおばあちゃんのペースに合わせて店を利用し、そこで初めて「この街の一員になってきたかも」という実感を抱いた。
そうしてケアを入口に都市生活を自分事化する人が増えた先に、冒頭の徳島県海部町のような、自分たちが出来る範囲でケアを引き取るようなまちの姿があるのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?