Cift #6 ~パートナーシップと結婚制度と依存先の分散~
■パートナーシップも色々
Ciftにいると結婚ってなんだろうと考えることが多い。ここではいろいろなパートナーシップの実践者が見本市のようにいるからだ。
独身もいる。
夫婦もいる。
離婚経験者もいる。
離婚してなお一定の理解者として関係を続けている人もいる。
お互いに多拠点生活を営み週末婚のような新婚もいる。
結婚しているが自分だけが東京に来る際の拠点にする人もいる。
レストランを経営する夫婦とその常連が3人で住んでいる部屋もある。
夫婦の家もありながら「シェア子育て」を目的に入居した母子も2組いる。
結婚だけがパートナーシップの形ではない、というのは理解していたつもりだった。でも実際にそんな在り方を目の当たりにすると、やはり衝撃は強い。
■自分の子でもあるという感覚
その中でも特に大きいのが子どもという存在だ。
シェア子育て母子のうち1組は子どもが乳幼児で、わずかな時間だが母親に代わり面倒を見る機会を持たせてもらっている。その時に自分が味わった感覚がまた衝撃なのだ。つまり、「この子は自分の子でもある」という感覚。もちろん100%のものではなく、ほんのわずかに、でも確かに芽生えた感覚だ。拡張家族だからこそ、家族の子どもは自分の子どもともなり得るということ。
■日本の婚姻制度
そこで引っかかってくるのが日本の婚姻制度だ。
パートナーシップのあり方が多様化する中でも、現在の日本の法制度の下で子どもを持つという点においては、結婚することが最も円滑な手段ではあるだろう(そこは時代に合わせて是正してもらいたいところだが…)。だからこそ子供がほしいという望みが結婚を後押しすることもあるし、子供を持たないという選択を取れば事実婚というようなスタイルもありうる。
けれども拡張家族を持つことで、結婚しなくても、パートナーがいなくても、身体的に子どもが望めない状況であっても、子どもを持てる可能性があるのではないか。たとえばシェア子育て母子2組が入居する部屋にはLGBT活動に従事するゲイのメンバーが同居しているが、彼も子どもの世話をする中でゲイ当事者としての家族の在り方を模索する機会になっているという。
■依存先の分散
そう考えると、これまで子供が欲しいということが結婚動機の一つの大きな要因だったかもしれないが、もっと多角的に結婚ということを考えられるかもしれない。
そこでさらに依存先の分散という話が頭をよぎる。自立とは依存しないことではなく、依存先を分散できているという考えだ。逆に言えば、依存先が少ないということは不健全な関係性を構築する原因ともなる。
穿った見方かも知れないが、これまでの核家族専業主婦モデルというのは依存先を狭めてしまうスタイルだったのかもしれない。つまり結婚が社会規範であった近年において、夫婦になることは社会的な幸せと定義され祝福される一方で、本人たちのスタンスによっては偏った依存を生む不健全な枠組みになってしまっていたということだ。(だからこそお見合い等で結婚していまなお夫婦でいる人たちは丁寧なコミュニケーションを続けてきた賜物であり尊敬する)
しかし今の時世であれば、依存先としての結婚相手ではなく、なにかもっと健全な形があり得るのではないだろうか。
■ともに在りたい人
話がとっ散らかってしまったが、Ciftで色々なパートナーシップを垣間見て、あれこれ考えたうえで、しっくり来るなぁという考え方は、じつはゼクシィの新コピーだったりした。
結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私はあなたと結婚したいのです
パートナーを最大の依存先としてしまうのではなく、自分の依存先をたくさん持ち(拡張家族もそれを担う大きなコミュニティの一つ)、自立しながらも、それでもお互いに尊敬をして、ともに在りたいと思う人。恐らくここでリクルートが訴えたい話とは少しズレているかもしれないが、いまはこのコピーにそんな意味を見出している。
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