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あの傘の行方

「本日、傘の忘れ物が多くなっております」
これは雨の日の電車の中でよく聞くアナウンスだ。梅雨が去った今となっては毎日暑く、雨が恋しくなってくる。
ともかくあのアナウンスを聞くたびに、ふと数年前にあったあることを思い出す。

会社がまだ三軒茶屋にあった頃、私は通勤帰宅に「田園都市線→半蔵門線→東武スカイツリーライン」と一本で乗り入れる電車を使っていた。
ある日の帰路、三軒茶屋から乗り込んだ私は空いていた車内の端の席に座った。
その時に足が何かに当たった。
シートの下を見ると、藤色のきれいな折りたたみ傘が置かれている。
私が乗り込む前からそのあたりには誰も客がいなかったので、かなり前から置き忘れられていたようだ。
ブランドに疎い私でもアナスイだとすぐにわかった。
これを置き忘れた人はかなり落ち込んでいるだろうと考え、可愛そうになった。
その後、渋谷に来ると多量の客が乗り込んできて、私の隣には初老の女性が座った。
彼女は自分と私の間においてあるアナスイの折りたたみ傘を気にしている。
横の私には非常にわかりやすかった。
やがて西新井に到着し、私が立ち上がると、女性も同じく降りようとアナスイの傘を手に取り、私を追い越して急いで扉の前に移動した。
ホームに降りた私たち。
私はその初老の女性にこう話しかけた。
「落とし物、届けてくれるんですね! 三軒茶屋からずっとあったと伝えてください。 ……持ち帰っちゃダメですよ?」
「ひゃい!」
まるで漫画のような声を出した女性に、私はおもわず失笑しかけたのだった。
そしてホームで立ち止まってしまった女性を残したまま私は改札に向かった。

あの後、あの女性がちゃんと駅員に落とし物として届けたのかは確認していない。
私が率先して届けていたら良かったのだろうが、今となっては後の祭りだ。


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葉月 陽
ゲーム業界に身を置いたのは、はるか昔…… ファミコンやゲームボーイのタイトルにも携わりました。 デジタルガジェット好きで、趣味で小説などを書いています。 よろしければ暇つぶしにでもご覧ください。