覚せい剤は私にとってとても良いものだった。 地元の友達も少しずつ覚せい剤を始めていたので、私は893と一緒じゃなくても、覚せい剤ができるようになっていた。 みんなで1パケだけ購入して、ポンプ(注射器)は一つしかもらえないので、回し打ちもしていた。今考えると恐怖でしかない。 そなへんの水のペットボトルで粉を溶かしたり、水道水も使ったことある。 恐ろしいね。 そのくせ、空気だけはきっちり抜くっていう無知でかなり矛盾している。 ほんと恐ろしいね。 そんな感じで、たまに食ってヨレて
16歳になった私は覚せい剤(シャブ)を覚えた。 当時は私の周りには893がよく沸いていた。 なぜそうなったか覚えてないが、父くらいの年齢の893さんがいきなり私を迎えに来て、ラブホテルに行った。 「誰にも言うなよ」とその893は私の目の前で白い粉を注射器にそそくさに詰め込んでサクッと自分の腕に刺していた。 私は初めて見た光景に唖然となった。 でも興味が沸いてしまっていた。 「やるか?」と言われ、すぐに「うん。」と言ってしまった自分がいた。 今考えたら、もちろんヤられてもし
私たちは逮捕された。 なんともださく初めてのカツアゲで逮捕されてしまった・・・。 ダサすぎる。 その日は恐喝ってことで帰った 。きっと親が迎えに来るはめになったんだろうが・・・。 でも運転もまともにできないくせによく隣の市まで行ったな。と思う。 ケッパコ(軽バン)にたくさんヤンキー乗せて笑 それからも中学3年はとことん遊んだ。乗り物で遊んだり、万引きで遊んだり、シンナーで遊んだり、たくさん遊んだ。 とにかく私はシンナーが大好きだったので、吸える場所に一人で遊びに行ったりし
「きもてぃ・・・。」 中学三年生になると、シンナーを覚えた。 薬物は反対派の硬派なヤンキーを目指していた為、ずっと拒んできたが彼氏との関係が終わってしまった私の心の隙間にスッと薬物が舞い込んできたのだ。 一口吸えばそれはもうとっても最高な気持ちになれるのだった。 それから私はボン中(シンナー中毒)と呼ばれる分類になった。 ”類は友を呼ぶ” という言葉を作った人に何回拍手をしたことか。 私の周りはあっという間にボン中だらけになった。 近所にある塗装屋さんの倉庫から1斗缶
「私と一緒に死のう」 母は私を車に乗せ猛スピードを出した。 あんたが私を狂わせたのに自分勝手なことよく思えるよな。 と私は呆れていた。 母は必死に泣きじゃくり大通りに突っ込もうとしていた。 母は私がヤンキーになってからは気が狂っていた。 ママ友に勧誘され、変な宗教に入り毎日大声で念仏を唱えていた。 家に変な仏壇が置かれていた。 私は毎日その念仏を聞くだけで暴れそうになっていた。 彼女も辛かっただろうが私も本当に辛かった。 彼女は毎日私を腫れ物を扱うような態度だった。 私に話
「もう、死んでるね」 こんなことが私におこるのか?信じれるはずがない。 目の前が真っ白になった。今まで大切に育ててきた赤ちゃんがもう私の体の中で死んでるなんて・・・。 ありえない・・・・。 でもどんなに涙を流しても、何をしても もう私の赤ちゃんは帰ってこなかった。 それは私にとって史上最強に辛い出来事だった。 私は8歳の男の子を持つ、シングルマザーで元看護師。 子供を産んでからなんとなく日本に不信感を持ち始めて、コロナあたりからもう日本に居たらダメな気がして、息子と出国