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今年の折り返しって事実受け止めきれないでいる
先日はじめて1万字以上のレポートを書き終えたところ
自分の専攻するものだからいいけどそれにしてもハードだった
仕上がりは自分で言うのもなんだがすごく良かったらしく高評価だったことが嬉しかった
内容的にもそうだが質疑応答では自分の人間観を掘り起こして話す場面が多くあってそれも良い時間だった
と、話すと何かに綴ることを勧めてくれたバイトの社員のお兄さんもその仕上がりがやはり気になったようなので読んでもらうことにした
想像通りnoteとかに綴る文章が俺は好きだよと言われた
そもそもつくりが違うからレポートという固くかっこつけてるような文面とは異なって当然であるのとは思ったが
まあなんだかここでこうやってゆるゆると思いの丈をまっすぐにというものの向きと居心地の良さに気づかされたような気もした
ここからは人間観で思い出したこと
最近家のトイレでばかり泣いているのはきっとこれのせい
人間には生まれてきた理由も生きる理由も残念ながら最初から用意されてなくて、
それはもう深層心理でもなんでもなくきっと行き着いた答えであるわけで
だからこそ、日々のなかで、これがあるから、この人が居るから、何らかの楽しみやらモチベを見つけては生き抜く
それが生きる理由らしさはある
てか、その原理なかったら”生き甲斐”なんて変な言葉生まれないよね
でも、いつもいつもそんな都合よくそんなものが存在するわけもないじゃん?
じゃあどうしてんだろう世の中はって思ったけど、
自分のことを自分以上に想ってる人が傍に居たとしたらそれはもう、自分の命は自分だけのものじゃなくて
だから、生き続けてるんだって
難しくなく単にそれだけでいいって、そう思う
自分のこの先の人生は、自分のためじゃなく誰かのために、何かのためにあるんかな
責任や義務なのかと無意識に思ってたけど、
自分がしあわせでいられることのためにあっていいということも分かるようになってきた
それを望んでくれたり喜んでくれる人も傍に居てくれるようになった
あまりにも簡単な、当たり前のことなのかもしれないけど大切なことだよね
それでも、もし、”生きること”なんて果てしなくて大きいことに悩んでしまうときはきっと、自分や自分の大切なものや愛おしいものを見失ってしまってるかもしれないから、
「いつでもここに戻ってくればいいんだよね」って思えるものだけは忘れないようにしたい
し、大切な人たちにとってそう想ってもらえる存在でありたいなあと
まあつらつら書いたけども気づけば7月
今年も半分が終わってた
思えば色々あったような無かったような気もする
いくつかの変化と変わらずにありたいと思うものが混在してて相も変わらず忙しいねほんと