他者としての植物 ー「植物と歩く」
家には成長し続けるポトスがいる。このポトスは1株から去年の夏以降8株くらいになり、家に置けなくなってしまった。そのため、知り合いに株分けをしたり、トイレに置いたりしながら増え続けるポトスを眺める生活が訪れた。その頃から、植物を育てるのは、全く知らない生物と過ごす時間と変わりないのではないのかと思えてきた。そうした視点で植物について考える機会は展覧会にどれ程あるのだろう。植物についての展覧会といえば、文化村で度々開催されるルドゥーテの展覧会や2015年に愛知県立美術館で開催された「芸術植物園」が思い浮かぶ。この植物を展覧会で見せるという試みは、図鑑として体系的に捉える視点から植物の多面性をどう開いていくのか、その試みとしても見える。それは、練馬区立美術館で展示された「植物と歩く」でも実感できた。初めのセクション、「プロローグ 植物の観察」で見られるのは、あの植物学者、牧野富太郎による植物標本である。牧野による植物の細かな観察力が伝わり、その隣には植物標本がある。枝豆の標本を見て、残された枝豆は茶色に化けると知ってしまった。ここまでは、植物を客観的に捉える眼差しについて考えさせられた。上のフロアに登ると別の一面も垣間見る展示構成となっている。「第1章 花のうつろい」では、中川一政や靉光、寺田政昭などの日本の近代日本洋画が並んでいた。そこに須田悦弘の彫刻が天井から見下げる様に配置され、監視員に案内されてその場を過ぎた。日本の近代洋画を見て、どの作品も当館所蔵であると気付く。練馬区立美術館には、常設展示室がない。そのため、今回の展覧会がコレクション展としてまとめられており、この展示は美術館でコレクションを見せる試みとしても面白い試みである。特に「第2章 雑草の夜」に展示された榑松正利《夢》(1949)は、草が生い茂り、どこか放置された空き地を思わせる。次の「第3章 木と人をめぐる物語」では、大沢昌助の《釘を打つ少年》(1949)と福井爽人による廃船の木炭デッサンが展示されていた。2つが展示されることで、船の部分と全体が頭の中で組み合わされ、植物の墓場について考えさせられてしまう。最後に展示された大小島真木による胎児と樹木が組み合わされた作品からは、植物と一体になった壮大なスケールすら感じさせられた。向かいのセクション、「エピローグ まだ見ぬ植物」に展示された麻田浩の《時》(1978)など夜の砂浜を描いた作品からは、土について思いを巡らせ、循環する時間までも考えさせられる構成となっていた。展示を見終わり、図録も購入した。図録に掲載された藏田愛子による「美術展覧会の中の植物」も明治から大正にかけて行われた文展の会場に展示された植物について扱っており、とても示唆に富んだ論考となっていた。元々、展覧会場の室内装飾として飾られた植物が大正後期にかけて、植物を用いた展覧会が開かれているという。昨今は展示室に水を用いたインスタレーションがオラファー・エリアソンの展示など見受けられる。場合によっては、作品に影響を与えてしまう水や土を敢えて積極的に用いる手法がこの頃からも行われていたと気付かされた。ちなみに、図録、1200円と入館料、500円を合わせて1700円の鑑賞だった。
「練馬区立美術館コレクション + 植物と歩く」(練馬区立美術館)
2023/7/2 - 8/25