高速バス:水戸から東京まで ー「ポゼッサー」
水戸の美術館から東京までの帰り道に高速バスを使って帰る。バスに乗ってから展示の解説文を複数にする方法とテーマとの相性を考えながら、アプリにダウンロードしていた映画をみた。高速バスでの過ごし方は音楽を聴いて寝るなど、人によって様々な選択種があり、その中から映画をみるのを選び取り、結果的にそれが展示の輪郭を辿る方法を取っていた。映画はブランドン・クローネンバーグの『ポゼッサー』という映画であり、他人の身体に入り込み、殺人を働く主人公によるSFノワールである。主人公のタシャは女性であるのだが男性の身体に入り込み、意識を操作し、絶命させ、ミッションを終える。そして、タシャについての描写は、離婚した夫が「危険な存在」と言いながらも、何度か会う存在という伏線のみ残され、あのラストに向かい、というとても限られた人物描写によって映画が構成されている。そういった描写をみながら水戸の展示について考える。あの展示に出品されていた石内都の「mother」シリーズは、母親という属性でもありながら、1人の女性という属性でもあるという多義性について考えさせられたりする。ここで、映画についての話に戻ろう。映画のテーマについて考えたとき、誰の身体であり、誰の意識なのかという問いが常に設定されている様に受け取った。遠隔操作によって、絶命させられる他者(主人公の名前がタシャであるのも示唆的)の身体が入れ物となっている近未来を描く手法は、どこか心の問題について考えさせられる。次々と他人の意識を操作しながら殺人するミッションを与えられるタシャは、常に苦痛を生じながらも絶命して終わる。そして主人公のタシャには、感情の揺らぎについての描写がいくつかあり、遠隔操作をするためのユニットに搭乗し、そこで資産家を狙ったときに元の身体、タシャの身体に戻れない。その戻れなさについて、これはタシャの感情なのではないのかと考えてしまった。更に踏み込んでみると、AIという存在は苦痛を何で処理するのだろうか、それはエラーなのかという疑問であった。もし、遠隔操作に搭乗する人物がタシャではなく、AIであったのならどうなったのだろう。映画を見終わった後、バスの車中、バスがトンネルの中を駆け抜け、窓から入るネオンの光が何処か無機質にみえた。
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