歩き続ける日々は、日常になんかならなかったって話
コロラドトレイル体験記が全然進んでいない僕ある。どうも。
唐突なタイトルだが、そんな話をちょっと書いていきたいと思う。
1ヶ月から2ヶ月のロングトレイルを歩いて、今やすっかり長く歩く日なんてなくなってしまっている。週に1日か2日か3日休んで、それは途切れてたりすることが多いものだから何日も歩くってことがすっかりなくなってしまった。僕は常にあの日々に戻りたいと思っている。あの歩き続けた日々に。ずっと考えて夢見ている。これが今の僕の日常だ。とある仕事についているものだから、長く歩くことが好きな人、好きになりたい人ともよく話をする。多数が「そんなに長く休めなくて」
そうだ、僕も今そうなっている。「そんなに長く休めない」が今の僕の日常だ。
1ヶ月と2週間の旅をしたすぐ後の僕は、長く歩くことが日常になっていたと錯覚した。しかしそれから2年が経つと、すっかり日常が歩かないものになった。そして今、2年前のことを思い出す。
すごく楽しかった思い出。
日常のことをこんなにも渇望して思い出すことがあるだろうか。僕の日常は確かに幸せなものかもしれない。しかし、再びあの生活がしたいと渇望することは非日常であることに違いないのではないかと思う。
僕は、歩くことを日常にできなかった。
「旅をしていると〜それが日常になりますよね〜」居酒屋でそう聞こえたことがある。旅をしているとと言っている時点で、それは日常ではないのではないか。移動や仮宿が日常の人はそれを旅と呼ばない。たしかに2年前移動や仮宿が日常だった1ヶ月と2週間があった。しかし人生の中で1ヶ月と2週間という期間はあまりに短く、早く過ぎ去ってしまった。そして思い出として思い出すことになっている。
歩き続ける日々は、日常になんかならなかった。