言葉のピン

人に見せる文章を書くのはひさびさだったので、少しだけ緊張している。
そして、自分から出てくる言葉と思考の変わり映えのなさに、少しだけ絶望している。

同じようなことを同じような言葉でしか書けない自分が嫌で、仕事の忙しさを言い訳にして書くのをやめていた。よくある話だ。
一度離れて戻ってきたら何が変わるかと思ったけど、なにも変わらなかった。それどころか退化している。

それに私は今けっこう充実した日々を送っていて、特別我慢ならないことがあるとか、悩みを共有したいとか、書いて発散したいことがあるわけじゃない。何かを教えられるほどの技術や知識を持ってるわけではないし、強い思想もない。何かをコツコツと継続することも苦手だから記録するようなこともない。特別な境遇でもないし、おそらく人より人生経験も少ないから痛みや辛さをひけらかして共感に導くこともできない。

それでも平凡で安全で幸福な日常にも思うところはあって、それは形のない薄い雲のようにぼんやりと漂っているのだけれど、ふいに風が吹いたり(思いもよらないことが起こったりね)、気圧がぐっと下がったり(気づいたらやらなきゃいけないことが増えてたりね)すると、その雲はだんだんと寄り集まり厚くなってポツポツと言葉の粒になって落ちてくる。受け止める器がないのでそのまま川に流れて、時間と共に忘れ去られていく。最近、そのことを漠然と不安に感じる。

詩的すればこう言えるけど、ようは書くことをやめたら思考が散り散りになって、私が今どこにいて何を感じてこれから何をしたいのかがよく分からなくなってしまったのだ。

だからエッセイじみた日記を書いていこうと思う。人生に意味なんてないと考えてるので、何かを訴えて自分の存在証明をしたいとかではない。書き残すことで現在位置を再確認するためだ。

今よりもう少し若い頃、言葉にすることでぼんやりしていた意識が輪郭を持ち始めるなんて嘘だと思っていて、むしろ言葉は自由な意識を閉じ込める檻みたいだと思ってた。言葉の檻に閉じ込められて、社会一般的な、理解可能の、決められた枠にはめられていく感覚は、自分がいなくなるようで不安だった。今振り返ればそれは考えすぎだと思う。とにかく繊細すぎた。
そしてあの頃よりだいぶ鈍感になった私は、今度は言葉を手放したことで自分が分からなくなっている。どうやら私は檻がないのもそれはそれで不安らしい。言葉は良くも悪くも人を社会に繋ぎ止める道具なんだと思う。

わざわざnoteに公開しなくてもいいんじゃない?とも思ったが、しばらく続けた非公開の日記は推敲しないので、緊張感がないし文がはちゃめちゃになった。
あくまで人に見せる文章だ。私はちゃんとずる賢いところがあるので、全てを丸々むき出しにするつもりはない。書きたくないことは書かないし、どうしてもまとまらないときは無理やり結論づけることもあるかもしれない。でも嘘や捏造はしないように心がけたい。

あらゆるブログやSNSでアカウントを作っては消すを繰り返しているため、ここも突然なくなるかもしれない。その時はその時だ。つまりは気負わずにやっていけたらいいなと思う。

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