数学には、科学の数学と芸術の数学がある!?


数学をどのように見るか?という数学に対する自覚と認識に深く根差す問題で、具体的には数学に二種類の異なる視座がありうることを指摘したい。それは、数学をいわゆる科学(サイエンス)の一種と見るか、それとも芸術の一種と見るか、という視座の違いである。

守屋陽一郎氏著


素晴らしい見解で、唸ってしまった。
無から有を生む芸術だが、生まれるのは、新たな問題?

技術は時代と共に衰えることはなく、集積を重ねて単調進歩していく。精神を高めるとか、情緒を清めるといった類とは無縁であり、むしろそのような主観性は排除して冷徹なシステムに徹している。空虚な数学には構想も目的もなく、システムの形式的な拡大のみが追求されている。このようは事情を指して、サイエンス側の数学を空虚な数学と呼んだのである。

守屋陽一郎氏著


数学を芸術の一種と見ると云うことは、数学とは『無から有を生む創造の働き』によって成り立つ”文化の理想が実現されてゆく流れ”として考えることを意味し、空虚の数学が失った精神と情緒の流動的な働きが縦横無尽に充満している。

守屋陽一郎氏著

 わたしが、カテゴリーにこだわる理由は、下位カテゴリーのままで価値創造をふくまらせても、混沌は混沌のまま中途半端となってしまうためで、まず、上位階層を突き詰めて次に問題解決の価値創造でもって芸術的な発想に持っていこうとしていた。
 誤解があったかもしれないのは、まだ、初期段階の構想しか私から発信していなかったためと、やはり、守屋氏の文章から学ばせていただいて、決着点が曖昧だったことが挙げられる。

 とはいえ、サイエンスの数学は、西洋的な感じがし、芸術の数学は、東洋的に通じるように思うので、別なわたしの探究から、
池田大作先生の著作の仏法を根幹とした書「見つめ合う西と東」を学ばせていただこうと、手にしたところである。

 カチコチな理性の数学の壁から飛び出た『芸術』との発想の転換は実に大きなものである。教えてくださった守屋陽一郎氏と岡潔先生に深謝申し上げたい。