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なぜ、変人(革命家)は、嫌われるのでしょうか。

[テーマ]変人はなぜ嫌われるのか

 ここでいう変人とは、変わったひとというより、革命家を指します。
 とかく、少数派で風変わりな意見を持っているマイノリティーは、今の多様性の世の中では、中心人物と捉えられるでしょう。

 それでは、少数派マイノリティーの試みはいかに。わたしの主張を述べさせていただきます。

[主張]変人がいないと革命が起きない。

 変人がいないと世の中が回っていかない。今のままでよいのか。いうなれば、多数派マジョリティーは常識人、少数派マイノリティーは非常識人ともいえるらしい。(具体と抽象 細谷功著から)
 さて、日本人はとかく、波風を立てず長いものには巻かれろ主義ではあるが、基本的に安心安全な暮らしがしたい。出来れば穏便に暮らしていきたいという考えが主流だ。相対的ないちにある産業革命、IT 革命、生活環境革命ぐらいまでは許すが、自己変革までには至らない。


①変人は嫌われやすい
 さて、理想と現実の間に壁が出来ており、変えることに臆病、はたまた億劫になってはいないだろうか。かといって、わたしも平和を愛する平和主義者だ。しかし、いたずらにケンカになったり、一時の感情で派閥にまで発展してしまった例は案外多いだろう。その単位が国どうしであったら、戦争が起こってしまう。そのきっかけは、嫉妬や誤解、差別、権力からなる上下関係などあらゆる要因があるだろう。
 日本人は、多数派マジョリティーが善だと勘違いしている。

②非常識変人はマイノリティー、常識人はマジョリティー 
 さて、礼儀正しく、常識豊かなことにたいして、敬意を表するのは当然だが、革命を起こすのに、相手にも心の準備が必要だし、突飛な意見を言うと反感ー買うのが日本人だ。
 釈尊は法華経の11品では、末法時代(釈尊が亡くなってから約2000年後)の凡夫の悪どさを述べ、まず、迹化の仏菩薩に末法時代のはじめの折伏弘教、広宣流布を託した。迹化の仏菩薩は喜んで引き受けられたが、時を感じた釈尊は、徐々に話を勧めていたが、法華経15品で、きっぱりと迹化の仏菩薩に託すのは止めて、こう呼び掛けた。


止みね、善男子!


と。実は、新しく、仏の寂光土から現れる地涌の菩薩がわき出でて、末法時代の広宣流布を新たに託したのだ。
 私の推測だが、迹化の仏菩薩が生まれ変わって地涌の菩薩になったのではないかなと思う。
 前置きが長くなったが、凡人の私どもは、なんの神通力もなく、そのまま変身出来ずにいるのが、普通だし、安静にしていたいと思う人が多数派で、マジョリティーだろう。


③多数派マジョリティーと少数派マイノリティー
 多数派マジョリティーはひつじの群れの中にいて真実を見たくない、特別扱いより、仲間同士、なんの反発もなく仲良く暮らしていきたいと思う人だ。
 さて、少数派マイノリティーはどうか。危ない人に違いないが、もしかしたら、善意で全体感に立った視点でものを言っている人も少なからず存在しているのも事実だろう。

④変人が許容されるには
 それでは、どうすれば変人が、受け入れられる社会に変わるか。
 それは、マイノリティーが変わるしかない。まず、マジョリティーを知り、自身がどの位置に属しているのか確認してみよう。
 かといって、価値観の視点を変えたら、一人の人間でも、マジョリティーにもなり得るし、マイノリティーにもなるのだ。
 マイノリティーに属している、というのは、間違いでそのテーマによるということ。

⑤そもそも人間とは
 ベン図などで括ってみたら、マジョリティーとマイノリティーの相対より、それをハタから傍観しているどちらにも入らない人間こそ、多数派マジョリティーかもしれないのだ。
 だから、自分の意見や主張を持っていること自体が素晴らしい人生を歩む資質が高いのかもしれない。

[結論]マジョリティーを知るマイノリティーであれ
 

私は、主張したい。
マイノリティーを否定はしないが、マジョリティーを知っているマイノリティーであれ。
とかく、全体を俯瞰出来る境涯に自身が変われるかが、勝負どころ。
 知識は、悪いことに使うのではなく、良いことに使っていこう。
 まっすぐで真剣な善意ある行動には、知識を智慧に変える能力が私たちには付いている。
 基本的に平和を愛さない人はいない。平和主義はマジョリティー多数派の私たち。運命を共にする平和主義マジョリティー共同体。万歳。