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「記憶と生活の交差点〜 歴史都市『函館』の新たな持続可能性を求めて〜」- 歴史的都市の持続可能性についての考察

はじめに:空間価値の二重性という都市の宿命

日本の多くの歴史的都市が抱える「都市の空洞化」と「高齢化の集中」という現象は、単なる人口動態の問題を超えた文化的・社会的ジレンマの表出である。函館西部地区の事例は、この二重性を鮮明に映し出している。「記憶の場所」としての価値と「生活の場所」としての機能が乖離するとき、そこには新たな社会課題が生まれる。

この現象は、フランスの歴史家ピエール・ノラが提唱した「記憶の場所(lieux de mémoire)」の概念と、人間地理学者イーフー・トゥアンが論じた「場所感覚(sense of place)」の対立として理解できる。観光資源としての価値と居住空間としての機能性の間には、本質的な緊張関係が存在するのである。

都市構造の変容と空間的分断:グローカルな現象として

函館西部地区で観察される「訪れる場所」と「暮らす場所」の二極化は、グローバル化時代の都市変容の縮図と言える。この現象は、単に日本国内の問題ではなく、イタリアのヴェネツィア、スペインのバルセロナ、中国の麗江古城など、世界各地の歴史都市が共通して直面する構造的課題である。

国内では、金沢の東茶屋街や長崎の出島周辺、川越の蔵造りの街並みなどが同様の分断を経験している。例えば、金沢では観光客向け茶屋の隣で生鮮食品店が姿を消し、地域住民は遠方まで買い物に行かざるを得ない状況が生じている。この現象は都市地理学者デイヴィッド・ハーヴェイが指摘する「時間・空間の圧縮」の地方版とも言える—グローバルな価値観(観光の眼差し)がローカルな生活空間を再構成しているのだ。

さらに、この変容過程では、平面的な空間だけでなく、時間軸においても分断が進行する。かつての日常性が「展示される過去」となり、現在の生活実践から切り離される現象は、社会学者アンソニー・ギデンズが論じた「伝統の再帰的再構成」の一例と見ることができる。夕陽が美しい坂の町・函館は、その日常的風景さえも「鑑賞される対象」へと変質していくのである。

社会的孤立のメカニズム:構造的問題としての再解釈

函館西部地区の高齢者孤立は、単なる個人的問題ではなく、都市構造の変容がもたらす構造的課題として再解釈する必要がある。社会学者ロバート・パットナムの「ソーシャル・キャピタル」概念を援用すれば、観光地化による地域コミュニティの変質は「架橋型(bridging)」の関係資本を増加させる一方で、「結合型(bonding)」の関係資本を減少させるという矛盾を含んでいる。

具体例として、京都市祇園地区では、地元の高齢者が「観光客から写真を撮られる対象」となりながらも、日常的な会話相手を失う現象が報告されている。また、鎌倉市小町通りでは、観光客で賑わう商店街の裏通りに暮らす高齢者が「賑わいの中の孤独」を経験しているという調査結果がある。

この孤立は、都市社会学者リチャード・セネットが「公共性の喪失」として分析したように、公的空間と私的空間の分断によってさらに深刻化する。観光地化した西部地区では、「見られる空間」と「暮らす空間」の境界が曖昧になり、高齢住民は自らの生活圏が「展示の一部」となる不安と、社会的交流の喪失という二重の困難に直面しているのだ。

価値の再定義による解決の方向性:関係性の再構築

函館西部地区での「地元高齢者が観光客に函館の歴史や魅力を伝える」取り組みは、単なる観光サービスの提供を超えた社会実践と評価できる。これは社会心理学者ケネス・ガーゲンが提唱した「関係性の中の自己(relational self)」概念に基づく実践と解釈できる—高齢者は「語り部」という新たな関係性の中で自己を再定義し、社会的存在感を回復するのである。

国内外の類似事例として、ポルトガルのアルファマ地区では、地元高齢者が「生きた文化遺産(living heritage)」として認識され、観光案内だけでなく伝統音楽ファドの継承者として尊重されている。また、長野県小布施町では「まちじゅう博物館」という概念のもと、住民が自宅の一部を開放するなど、観光と生活の境界を意図的に曖昧にする試みが行われている。

これらの事例が示唆するのは、「観光/生活」という二項対立を超えた「共創的空間(co-creative space)」の可能性である。人類学者アルジュン・アパデュライが提唱した「想像の共同体」の概念を応用すれば、地域固有の歴史が「共有される物語」となることで、観光客と住民の間に新たな一時的共同体が生まれる可能性があるのだ。

デザインとアートの社会的機能:治癒的共同体の創造

函館西部地区における「デザインとアートの力」の可能性は、近年注目される「文化的処方(カルチュラル・プリスクライビング)」の概念と深く共鳴する。この概念は単なる美的価値の創出を超え、地域住民、特に社会的に孤立しがちな高齢者の健康と福祉を向上させる社会的介入として再定義できる。

文化的処方とは、医療専門家が薬物療法に加えて、あるいはその代替として、芸術・文化活動への参加を「処方」する実践であり、イギリスやスカンジナビア諸国で顕著な成果を上げている。研究によれば、こうした介入は参加者の幸福度スケールで0.45の標準化された平均差(SMD)という有意な向上をもたらし、抑うつ症状の平均34%減少、社会参加の促進、自尊心の向上などの多面的効果が確認されている。

函館西部地区という歴史的景観と高齢化・孤立という課題が交差する空間において、この文化的処方の視点は新たな可能性を示唆する。例えば、イギリス・マンチェスターの「マンチェスター・ミュージアム」では、認知症患者を対象とした「記憶のアート」プログラムが実施され、参加者の認知機能維持と社会的交流の増加に貢献している。同様に、西部地区の歴史的建造物や伝統工芸を活用した創造的活動は、単なる観光資源としてだけでなく、「治癒的共同体(healing community)」を生み出す触媒となりうる。

医療社会学者アーサー・クラインマンが提唱した「ローカル・モラル・ワールド(地域的道徳世界)」の概念を応用すれば、アートやデザインは地域固有の価値観や物語を共有・再解釈する媒体となり、分断された共同体の再統合に寄与する。函館の坂道や歴史的建造物を舞台にした世代間交流型のアートプロジェクトは、地域の記憶を継承しながら、同時に高齢者の社会的役割を再構築する実践となりうるのだ。

特筆すべきは、文化的処方が「自己表現」と「共同体への帰属」という二つの基本的欲求を同時に満たす点である。フランスの精神科医兼心理学者ボリス・シリュルニクが提唱した「レジリエンス(回復力)」の概念に基づけば、芸術表現は「トラウマ的経験」(この場合は地域の変容による喪失感や孤立)を乗り越え、新たな意味を創出するプロセスとなる。実際、イタリア・トスカーナの小さな町モンテカティーニでは、高齢者が地域の記憶や技術を若いアーティストに伝える「世代間アートラボ」が設立され、参加高齢者の医療サービス利用が18%減少したという報告がある。

さらに、芸術活動への参加がコルチゾール(ストレスホルモン)の減少や脳由来神経栄養因子(BDNF)の上昇など、生物学的指標にも肯定的変化をもたらすという研究結果は、文化的処方の医学的根拠を強化している。函館西部地区においても、地域に根ざした文化活動は単なる「気晴らし」ではなく、身体的・精神的健康の増進に貢献する「環境療法」として位置づけられるべきだろう。

実際の事例として、北欧デンマークのオーフス市では「The Culture Vitamins」プログラムが医療機関と連携し、うつ病や不安障害の患者に対して文化的処方を実施している。同プログラムでは、投資1ユーロあたり3.20ユーロの社会的リターンが算出され、その費用対効果も実証されている。函館においても、例えば「坂道健康散歩」や「思い出の函館写真ワークショップ」などの取り組みを、単なる観光アクティビティではなく、地域住民の健康増進・社会参加プログラムとして医療機関と連携して展開する可能性が考えられる。

フランスの哲学者ジャック・ランシエールが指摘するように、芸術は「感性の分割(distribution of the sensible)」を再編する政治的実践でもある。函館西部地区における「観光客/住民」「若者/高齢者」という二項対立を超えた新たな関係性の構築において、アートやデザインの実践は単なる美的介入を超えた「社会的処方箋」として機能しうるのだ。

文化的処方の視点を導入することで、函館西部地区における創造的実践は、「観光のための装飾」でも「住民のための娯楽」でもない地域の持続可能性と住民の健康・福祉を同時に向上させる統合的アプローチとして再定義される。それは、社会的孤立や健康格差という現代社会に普遍的な課題に対する、地域固有の資源を活かした創造的解決策なのである。

結論:持続可能な地域社会へ向けて - 普遍的課題としての再構築

函館西部地区の事例から導き出される課題と可能性は、歴史的価値を持つ多くの都市に適用できる普遍性を持つ。それは「保存と発展」「観光と生活」「過去と現在」という二項対立を超えた「第三の道」を探求することにほかならない。

文化的処方の視点を加えた新たな方向性として、以下の三つの視点が重要である:

  1. 空間的連続性の回復と健康増進の統合 - ドイツのフライブルクでは、歴史的市街地に「健康の道(Gesundheitsweg)」というウォーキングルートを設置し、住民の運動促進と観光客との自然な交流の場を創出している。函館においても、坂道や歴史的建造物を結ぶ「ウェルネス・トレイル」のような空間設計が、地域の健康資本と文化資本を同時に高める可能性がある。

  2. 社会的役割の再構築と文化的処方の連携 - スコットランドのダンディー市では「社会的処方ハブ」が医療機関と文化施設を結び、孤立高齢者に対して地域の歴史や文化を伝える「ストーリーテラー」としての役割を提供している。函館西部地区でも、地域の記憶を持つ高齢者が健康増進と文化継承の担い手として活躍できる仕組みづくりが求められる。

  3. 創造的実践と地域医療の協働 - フィンランドのヘルシンキでは「Art and Culture in Healthcare」イニシアチブにより、病院や高齢者施設に芸術家が常駐し、患者や入居者と共に創作活動を行っている。函館においても、地域の医療機関と文化団体が連携し、特に社会的に孤立しがちな高齢者に対する「アート・オン・プリスクリプション(芸術処方)」の仕組みを構築することで、医療コストの削減と地域活性化の両立が期待できる。

これらの取り組みを通じて目指すべきは、社会学者アンリ・ルフェーヴルが提唱した「都市への権利(right to the city)」と公衆衛生学者マイケル・マーモットが説いた「健康の社会的決定要因(social determinants of health)」の両方が保障された状態である。すなわち、多様な主体が都市空間の形成に参画でき、同時に社会経済的地位や居住地域によって健康格差が生じない共同体の構築こそが、持続可能な歴史都市の条件となるだろう。

函館西部地区の取り組みは、「文化を通じた健康なまちづくり」という新たなパラダイムの実験場として、その成果と課題が広く共有されることを期待したい。そこから生まれる知見は、世界中の同様の課題を抱える歴史都市にとって、文化的・社会的価値と住民の健康・福祉を両立させる貴重なモデルケースとなるはずである。

2025年3月1日
赤レンガ倉庫の美しい風景

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